2022/12/9

自我の価値と他我の価値

202で残していた課題としての
自分の価値の設定と、自我と自分の中の他我の関係やその価値の設定について考えてみる。

自我が自分の中における欲求やら目的やらの
生物としての生きざるを得ない制限の中にある
自分で意識せざるを得ない自分であるのなら、
それを構成するために想起される刺激は、
その刺激として認識される自分の形を持つ価値を
自分自身でそこに設定することになる。

つまり、自分で自分の自我を認識するためには、
自分の中で自分や自我を形作らなくてはならないという事である。
五感の刺激などは、その体が生体として持つ器官の能力として、
あらかじめ設定された刺激の感じ方があるので、
これは他人と共有されない固有の価値の設定となる。

つまり人それぞれ感じ方が違うのが五感の刺激であるということである。

そして、この五感とは関係のない刺激、
つまり、社会的とか通念とか常識とか、そういった上に成り立つ、
貨幣や権力や品性や、性格、信念、名声、というような刺激や価値は
各個体においても固有の価値にはなるが、
その出所はその個体が所属する社会であり、
そこから後天的に得る知識として学ぶ事になる。

この2種類、生体としての固有の能力を持つ存在としての自分と、
社会上に所属する事になる存在の自分、この刺激と価値の設定が自分の価値の設定となる。

そして、この自分の価値は、自身の脳がそれらを刺激として認識した時の価値の設定から
構成されることになり、これはその個体が持つ刺激や価値の経験、価値観から設定された価値となる。

つまり、この価値設定から、自分とはこういう者であると自分で認識できることになる。
通常はこの価値設定は自分で自発的に認識されることはなく、
つまり意識することなく認識していて、自分がどう思うかなどは自分で考えるまでもなく、
ある瞬間に感じた刺激、感覚がそのまま自分の感覚、自我として認識している事になる。

ただ、自分、自我でさえも自分が持つ脳が、自分の生体が感じる刺激と、
周囲の環境にある社会から得ている、学んだ刺激に対して価値を設定し、それを認識した上で、
その刺激の想起から再構成されている対象であるので、
自分が最も自分を理解しやすい存在であり、そして、
あえて、意識的に自分という存在、自我についても客観的に見たり考えたりする事はできる。

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自我と他我について

自我は上記の通りであり、
これと同様に自分が持つ他人の他我の姿というは、
自分が見たり聞いたり感じたりする他人から得られる刺激に対して、その認識時に設定される
自分の価値観が決める価値から構成されることになる。
自分の刺激について自分がどのように感じるのかをまとめたのが自我であるなら、
他人が感じているであろう刺激について他人がどのように感じているのかをまとめたのが他我ということになる。

ということで自我も他我もそのルーツとしてはある対象から得られる刺激に対して設定された価値、
そこから想起される刺激で再構成されている存在であるため、
どちらも自分が持つ我という同じ集合の中に含める事ができることになる。
しかし、自分が認識する他我は自分が持つ価値観から他人が得ていると見える刺激の姿であるので、
実際に他人が感じる刺激とは異なり、自分が持つ他人の他我の姿と、
他人が持つ自分が他我であると思っている他人自身の自我の姿は異なっている。

202ではその他に自分が他人を演じるということの自我と他我の関係とか、
他我との関わり合いの中で自我をどのように関わらせているのかという課題があったが、
自分が持つ自我も、自分が持つ他我も、自分が受けた刺激に対してその価値を自分の価値観を元に
設定しているため、自分が持つ自我も他我も、自分で認識できる対象にはなっている事になる。

つまり、自我と他我のある刺激に対する価値の設定が異なっていたとしても、
どちらも自分の価値観の上で成り立つ価値の設定であるため、
例えば自分が他我を演じようとしたとしても、それは完全に他人を真似するわけではないので
それほど難しい事ではないということになる。
まあもちろん、本来の自分が持つ価値の認識でない価値観の刺激の認識の仕方をするために、
再構成する刺激を思考しながら想起して、その刺激から再構成して他我を認識して演じることになるという
手間があるため、難しくはないが容易でもないという事にはなる。

しかし、ある刺激に対して本来自分が設定する価値ではない価値を設定し、
それを認識して他我の構成する価値観であると認識し、
自分なりの他我を演じるということはできるという事になる。

つまり、それを言うと、他我との関わり合いの中で、自我を設定するということは、
他我が感じているであろう刺激に対する価値の設定を、自我でも同じ様に一度は認識することになり、
自我は他我も含めた我の集合としての存在であるという事になる。

それは、例えば社会の中における自分の立場を、
他人の他我との関わり合いを持つことになる自我の姿を、
その他我との関係の中で変化させながら構成しているということになる。

つまり、他我が存在していない、社会が存在していない状態で作られるであろう自我が、
自然界においては最も自分らしい自我になるはずなのだが、
人間として社会の中に存在する必要がある状態で、自分の自我を作るには、
多少なりとも他我の価値、価値観を認識した上で、自分の自我、価値、価値観を作らないとならない事になる。

つまり、社会における自分の自我は、自分勝手な自我に作ることが出来ないという事になる。

とはいえ、
本来の自然な姿である自分だけの自我というものが存在しているのは確かであり、
周囲の目が存在しない場所、例えば家の自分の個室などであれば、
他人の他我を認識する必要が無ければ、自分の自我だけで過ごす事もできる。

ありのままの自分はありのままの自我でいるはずとなる。

しかし、なかなかありのままの自分でいるということは難しく、
一人でいたとしても自分の今後の事を考えると周囲との関係を考えざるを得ない。

社会的な不安や心配など、社会の中における自分の存在に対して感じる刺激や価値というのは、
本来の自分の自我ではない刺激や価値である。
自分の自我が本来のありのままの姿で居られないという状態は、
少なくとも刺激や価値に対して思考する対象としての負荷があるため、
そのまま心労ということになる。

そのために例えばスポーツをしたり、ゲームをしたり、お酒を飲んだり、と
何かに集中したり、忘れることで自分の刺激の認識を、本来の自分だけの刺激の認識とすることで
社会と自分の関係を思考しなくても良い時間を作る事は重要なのかもしれない。

ふと思ったが、瞑想もこれに近い事なのではないか。
社会的な中にある自我を手放した上で、さらに自分の自我も離した状態になろうという事なので、
ありのままの自分のさらに大本の、つまりは脳の存在だけの自分という状態になるだろうか。

まあ一日の内に少しの間だけでも、
他人の他我の心配をすることなく、ありのままの自分でいる時間を過ごせた方が良いとは思う。
鼻をほじっても、おならをしても、誰にも気にされない時間である。
自分のその行動さえも許せない?
まあそういう自我があっても良いとは思う。
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自我の価値と他我の価値の比較

知能が刺激、価値の比較しかできないということはこれまで書いてきたが、
価値である以上はその比較というのは存在することになる。

で、そこで思ったのが、自分の価値より他人の価値が勝った状態というのは
どういうことであるのかということである。
普通は、生命である以上、自分の価値、つまり自分の存在、命の価値が最も高いことになるが、
それよりも他人の存在や命を価値あるものとして考える状態が存在するということについて考えると、
例えば、愛、信念、信仰、他にもあるだろうか、
そういった状態においては、自分の存在よりも他人の存在を価値あるものとして判断する場合がある。

恋人やわが子を優先する、
自分の信念を曲げない、
神への信仰を優先する。

これらは自分の自我としての価値、自分の存在の価値よりも、
他の対象の価値を優先する事、価値があると判断している事になる。

意外に自分が設定する自分の価値はあまり高い価値ではないのではないだろうか。

つまり、人間の繁栄、個体数の増加により、各個の人間という種族における個の重要性が低下しているのではないか。
つまり、他が多く存在している中における自分という個は、
とりわけ個を重んじなくとも、つまり、価値を高く設定しなくても良くなったという事になるか。

そういえば、以前、平等が進めば進むほど個性が際立つ存在になると考えた事を思い出した。

つまり、価値の差が無くなればなくなるほど、その価値の差に価値が生じるという事。
まあ価値の差があるからこそ、価値の比較において価値があるという事になるので当たり前なのだが、
そういう観点からでも、自分の価値より他人の価値が高い事に対して価値を感じる事があるのなら、
それは単に価値の差に価値があると感じる人間の知能の普通の機能という事になるのだろう。

あまり深く考える事でもなかったかな。
今日はこの辺で。


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