2022/11/28

模倣と学習

知能が何らかの知識を学習する場合に模倣による学習を行う場合がある。
今回はこの模倣を中心とした学習について考えてみる。
特に、刺激や価値、記憶や想起を用いる時の模倣や学習について考えてみる。

模倣について考えてみると、
模倣は通常は見たり聞いたり、等の感覚で得た情報を、
その感覚で得たままの刺激をトレースするように自分で実施し
その刺激の感覚の再現として真似ることである。

まず、この方法の一番の利点は学習の為の労力が少なくて済むことである。
模倣して再現したとして、すぐに完璧に再現できるものではないが、
少なくとも同じように似たように行動したり実施したりすることはできる。

例えば、子供がボールを投げるフォームを覚えようとしたとする。
ボールを投げるということは、まずボールを手で持ち、構えて、
手を後ろから上、前に振り、途中でボールから手を離し、ボールが投げられる。

子供は最初、ボールを手で持ち、グルンと手をまわして途中のどこかでボールを離すだろうか。
ボールはあさっての方向に飛んでいくかもしれない。
しかし、もうこの時点で既に模倣の学習は一度完成しているのである。

子供が見たボールを投げるという動作の刺激は、
今回視覚であったとして、その体の動作は大きく3つ、
ボールを掴む、手を回す、ボールを離すである。

今回はボールを投げる動作であるので、ボールを中心にした対象の動作となり、
その刺激は特にボールに操作が与えられた動作が強い刺激となって認識されることになる。

子供は自分の手や腕を自由に動かせる、または、自由でないにしろ、
意図した動作のような事はできるという状態で、それを見ただけで自分もできるようになるというのは
学習としては非常に効率が良いものである。

つまり、ボールを投げる動作の対象が行った動作を、
その刺激を認識する事で、自分の動作に反映させる、
つまり、その動作の刺激を、自分の刺激として認識し、想起して再現する事が出来るのである。

恐らくその後、成長にしたがって、何かを投げるという動作を続けることにより、
ボールの方向や手や体の動かし方、手から離すタイミングなどをその繰り返した経験としての刺激から
価値評価を行い、良い価値であった刺激を選択してそれが価値観として残し、
次の再現時にはその良い価値であった時の刺激が再現されて動作はより正確さを増していく。

例えばこれを文章での説明や、絵による解説で学習を行ったと考えた場合、
ボールを投げるまでにどれだけの時間がかかるか分からないし、
そもそも文字や文章の理解、学習から導入しなくてはならないことになる。

他の動物の世界であっても、先達が自分より先に生きていて、さらに自分が誕生するまで生きていたということは、
先達はそれまでに自分よりも経験を持ち、その経験のおかげて生き延びている存在ということになる。
その先達の行動はつまりは、その自分より長く生き延びる事の出来る経験を持っている事であり、
それを真似する事は容易にその経験を学び、その長く生き延びる方法を自分が得る事が出来るという事になる。

そして、何より先ほど書いたように、得た刺激のままを真似るということは、
他の伝達要素を必要としないという事でもある。
文字や会話といった方法を必要としないということである。

これは、学習する事、学ぶ事としての初期の行動であるという事が分かる。
つまり、模倣は原始的な学習方法だということである。

原始的であるから単純である、大したものではないという事ではなく、
最も簡単で、効率的で、効果的な学習方法であるという事である。

それは、刺激という面からも、他人が行った動作、操作に対して、
あたかも自分が行ったかのような刺激として受けて記憶する事が出来るという事である。

それは、視覚で動作を対象としても、聴覚で音を対象としても、
嗅覚で匂いを対象としても、触覚で感触を対象としても、
味覚で味を対象としても成り立つ学習方法であり、
最も効率的で効果的な学習方法であるという事である。

そう、ということは、聞いた音をそのまま真似て発音する。
それは、最初は口や舌が自由に動かずに上手な発音にならないかもしれないが、
やがて成長に従って聞いた音を同じように発音できるようになる。
これはそのまま言葉や会話の学習をしている事になるのではないか。

その言葉の文字を知らなくとも、発音が同じならもうその言葉は音として、
その真似た音がそのまま単語として音の刺激として記憶されている事になる。

模倣は、恐らく、自分が意図しない学習であるということになるのではないか。
自分が見聞きした、つまり、刺激として受けた情報は、
その認識に際して、その時点で記憶され、想起されて再構築されて認識に至る。
であれば、自分に学ぶ意図がなかったとしても、
見聞きした時点でその学ぶ準備がすでに済んでいるという事になる。
つまり、知能が刺激を認識した時点で、その刺激に対する学習は原始的なものであるが、
つまり、脳にあらかじめ備わっている学習能力であるが、
それを使ってもう刺激の学習は行われている、常に行われているという事になる。

とはいっても、模倣する、学習する意図、意志がなかったとして、
それは、その刺激は記憶し、学習されたことになるのか。

ということは、脳が刺激を認識する事の全ては学習の一端であるということになる。

認識して意識した場合、それはその知能にとって価値のある刺激であったということになるので、
学習する意志の有無にかかわらず、それはその知能にとって記憶する価値のあるものであるという事になっている。
学ぶ価値があるという事である。

自分にとって意味のある、好ましい価値のある刺激、対象だけが学習の対象ではないという事である。
嫌悪、嫌う、忌むべき刺激であったとしても、それを後に避けるためには学習としてその刺激を記憶、認識、
学習する方が為になるということになるか。

ということは、
今回の模倣と学習については、

模倣は脳が原始的に持っている、
最も単純であり、最も効果的、最も効率的な、
認識した全ての刺激を対象とした学習する機能である。

という事になるか。

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おまけ

私は学生時代にボールを遠くに投げる方法としてほとんど手だけで投げていた。
当然遠くに飛ばす事はできず、平均よりも短い記録であることがほとんどだった。
そしてようやく10年ほど前に、遠くへボールを投げるコツが、腕や手の動かし方ではなく、
私は右利きだったので右足の踏ん張りと蹴り、
その力を体を通して腕に伝える事だということに気づいた。
まあ今更気づいてもなのだが、見ただけの模倣にも限界というのはある。

今回のボールの投げ方という例においては、ボールを中心とした動作の刺激だけではない、
理にかなった知識といったコツの様な物、刺激も存在する。
それは、学問や知識、経験等の記録として代々文章や会話、絵、今なら動画や解説でまとめられて、
その知識となる刺激は保存、保管、伝達されている。

私は運動の記録が低いから運動能力も低いと思っていたのでその後もあまり興味も持たなかったのだが、
気づく前に学んでいればと少し残念には思う。
ちょっと幼いころの自分に教えてあげたい知識の1つではある。

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あともう1つ。

模倣についてはその学習するという事の先にもう少し意味があるのではないかと考えている。
つまり、模倣する対象への所属である。

相手に対する共感や、同一視、も、その範疇(はんちゅう)に含まれるのではないかと思うのだが、

例えば、動物であれば群れの行動、
人間であればユニフォームや、趣味の仲間、部活、有名人へのファン活動、
コスプレ、物まね、それこそ、民族や、国家の思想など、
その模倣する対象に対して自分が所属しようとすること、
つまりその模倣するという事によって、
その所属しようとしている対象についての価値を得ているのではないかという事である。

学習の根幹について考えた場合、
学習は、その対象となる刺激を記憶することなので、
刺激、つまり価値を記憶する事、価値を学ぶ事はそのまま学習であると言い換える事もできる。
特定の集約された価値、価値の集合ということになるか、
その価値の集合を模倣し、その価値の集合を持つという事を示す事で、
その価値の集合を持つ集団に所属する事になるということ自ら示す事。
それも模倣になるのではないかというわけである。

ということは、対象への所属も学習の1つということになるか。
いや、意図して所属しようとするわけだから、
価値の学習の結果として対象へ所属しようとしているということか。
強制の場合もあるか。
その場合は強制的な教練ということでもあるか。
他我による自我への強制的な学習ということか。
まあとにかく、
模倣の1面として、

価値の集合に対して学習を行う場合、
価値の集合を持つ集団に対して所属しようとする事になる。

ということになるか。

今日はこの辺で。


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