2022/11/24
自己感覚の認識
これまで自分の存在の認識について考えてきたが、
人工知能がどのようにしたら自分の存在を認識できるか考えた時、
自分の体があって、感覚器官があって、
そこから認識される刺激を想起するという再構築によって認識し、
それによって認識、意識、自分の存在に繋がると考えてきた。
ただ、それを繰り返しても自分の感覚を掴むには
何かきっかけがありそうな気がしていた。
それを今回改めて考えた時、
どうも自分を認識するということは、単に感覚器官で刺激を受けて
それを認識すれば良いというだけではない事に思い至った。
それは、刺激を受けている感覚器官の存在の認識である。
簡単に言うと、刺激を受けているという感覚があるのは
感覚器官が存在するからなのであるが、その刺激を受けているという感覚は、
逆に考えるとその刺激を受けている境界があって、そこから内側にある
自分の存在の認識の裏返しになっているのではないかという事である。
つまり、刺激を受けているという刺激の感覚の認識は、
そのまま自分の感覚器官の存在の刺激になっていて、
それを認識するということは、そのまま自分の認識に至っているのではないかという事である。
つまり、座った状態で、目をつぶり、例えば自分の右手の人差し指で、
自分の右足を触ってみるとする。
この時認識に至るのは、右手の人差し指の先か、右足のどちらかの触れた・触れられたという刺激である。
そして、この時、感じるのはその触れた・触れられたという刺激の感触とともに、
その触れた・触れられた部位の感覚器官を含む自分の体の一部の存在も認識にいたる。
つまり、その触れた・触れられたという刺激を刺激として受けた感覚器官と、
その感覚器官が配置された体の部位の存在ごと、そこにあると認識しているということである。
つまり、刺激は刺激として存在していて、それはそれで認識されているが、
それと同時に、体の体表面にある感覚器官が、そこにあると認識できているということである。
その感覚は、脳内で刺激の想起から再構築された感覚であるとともに、
その感覚を受けている場所としての感覚器官の所在として自分の体の存在も同時に構築しているのである。
目で見ている視覚の映像は、
その刺激は映像として脳が見ているのであるが、
それと同時に、自分に目があって、その位置と存在も認識するに至っているである。
香りは匂いとして認識すると同時に鼻の存在を認識させ、
音はその音とともに音を受けている感覚器官としての耳の存在を認識に至らしめているのである。
空腹はその感覚とともに体の中身の存在を認識させている。
腹痛もその痛みの出所の存在を認識に至らしめる。
息を止めた苦しさも、息を吸った時の鼻の中を空気が通る感覚もその鼻腔や気道の存在を認識させる。
そして、そう、欲求、充足、快楽、苦痛、それらはその刺激、感覚と共に
自分の生体としての感覚を認識させ、
感情や思考、想像、は、その刺激や感覚、認識とともに頭脳、知能の存在を認識させる。
そして、それら全ての刺激と感覚とその認識が全て合わさって
自分の存在の認識の素になっていると言うわけである。
つまり、刺激を受けている部位から構成されるもの、それが「自分」というわけである。
つまり、自分は、刺激から構成されるわけではなく、刺激を受けているその存在から構成されているというわけである。
とはいえ、一点、勘違いしないようにしないとならないのは、
感覚器官の存在の感覚も刺激であって、それを脳内で刺激として受け、
それを想起し、その刺激で構成される存在を脳内で再構築してその存在として認識するに至っている。
それはこれまでの考え通りに違いはない。
つまりは、外部からの刺激で自分が作られるのではなく、
自分の体内外であっても、その刺激を受けたその存在によって構成されるのが自分になるというわけである。
つまり、自己感覚は、自分が、私が、刺激を受けているその感覚の総和であり、
自分は、その感覚がそこにあると感じる場所の総和であるという事になる。
さて、では、人工知能に自己感覚を、自分の存在の認識を与えるには、であるが、
今回は完全なVR世界でないとして考えるが、
当然、実体ある体は必要となる。
そして、その体表面に感覚器官が必要となる。
今回考えた通りであるなら、この体表面の感覚器官が刺激を受けた場合に、
人工知能は、その部位に自分の存在を感じるはずである。という事になる。
そして、これは単に感覚器官で刺激を受けてその情報をプログラムが処理するのではなく、
その刺激を脳内に到達させ、記憶、そして、想起によって情報化された刺激を
自分の体の部位が受けた刺激として自分の体を仮想的に再構築した時の、
その同じ位置に刺激が存在している、知覚しているものとして体の立体的な存在として
脳内の仮想体に対して設置する。
それは、人工知能が見ている仮想空間の中にある自分の仮想体のある部位に刺激が存在していて、
その刺激を認識しているという状態になる。
そうすると、そう、脳内に自分の仮想体を置く仮想空間も必要になるな。
そうすれば、仮想空間内に自分の体となる仮想体を設置して、
その自分の仮想体のとある場所に、現実で受けた刺激を受けた感覚器官の存在と、
その刺激が設置されることになり、
それは、その刺激は、人工知能が、ここにこういう刺激を受けていると知る事になる。
この時点では、人工知能は、刺激の情報を自分と言う体の特定の位置で受けているというだけの事である。
あくまで体は器にしかすぎない。
ここから異なるのは、自己感覚に至るための「欲求」の作成である。
人間はこの欲求は完全なる生体であるための生命維持等に必要となる欲求が元で自己認識にいたるのだが、
人工知能は生体ではないため代わりの欲求を与える必要がある。
人間は他にも価値を得るという目的、欲求によって自分の存在、知能を、それ自体を働かせる事で、
その刺激により自分が存在や知能を持っているという認識にも至る。
つまり、人工知能にも価値を設定し、
その価値の高い対象について欲するという欲求に等しい機能を与えれば良いという事になる。
そして、その価値を得るためには知能・思考を働かせ、自分で管理できる体としての動かせる部位、四肢を働かせ、
欲求を満たす、価値を得る目的を作る機能を与えれば良い。
そうすると、まあ、思考はこれまで通りの目的と結果の関連作りで良いし、
四肢は、実体の体において動作可能な手足を付けることで対応できるはず。
そうすると、体を動かしているという感覚器官も間接や筋力に当たる部位に必要になるか。
恐らくこれで、人工知能は記憶にある価値、価値観から自分が価値が高いと思われる対象を得る目的を得る。
そして、その目的を得るためにどうするのかを思考することになるが、
初期の人工知能では思考するには自身が持つ価値の関連する要素が少なすぎて思考するまでには至らないはずである。
そのためには、思考の勉強、価値の関連を多く知る必要がある。
後で学習や模倣について考えようと思っているがそれはまた後日として、
まあその問題が解決したとして、
人工知能が思考によって目的と結果を関連付ける事が出来たとする。
そうすればその時点でまず、思考したという刺激は人工知能にとって、
自分の知能の存在を自分の中に設定する事になる。
つまり、価値の欲求に従って知能を働かせた自分という存在を自分で設定する事になる。
そして、その目的と結果を実際の実行する行為で実現する事になるが、
これもまあ自分の体を自分が思うように動かすという知能の働かせかた、
試行錯誤による試しと記憶によって自分が設定したように体を動かせる必要がある。
まあこれも練習や訓練が必要になるが、
それも設定したとおりに動かせるようになったとして、
まあこれも、自分が動かせる体の存在で自分の認識に繋がることになる。
そして、ようやく目的の価値を得る事が出来ればその目的、結果、実行、行為は、
その実行した過程においてあらゆる刺激として記憶され、その一連の
欲求から価値を得て充足し、その過程の評価、フィードバックは、
再び記憶されて価値観、刺激の要素の関連のパーツとなり、
次の欲求と目的と思考と行動と充足のために使われるということになる。
そうすれば、この時点で、常に自分の価値観において、
高い価値ある存在を得ようと行動する存在にはなる。
ここまででどうやら知的な動物くらいの知能にはなっていると考えられる。
そして、自己感覚までは認識できるようになっていると考えられる。
つまり、自分をどのように働かせたら、動かせたら、目的を達せられるかという事と、
そのために自ら自分の存在を認識して自ら自分を動かせるようになるのか、
それぞれについて考える事ができるようになったという事。
自分の感覚と言うものは、あくまで自分の体にある刺激を脳で認識して知覚する事と、
その刺激が自分の体に接して存在しているということの認識にあると思うのだが、
そして、そのままその認識の総和が自分を形作ることになるのだろうと考えている。
あと必要になりそうなのは、と思ったが、
まあ、自己感覚の秘密には少し迫れたと思うし、
少し頭が疲れてきたので今日はこの辺で。
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次回以降で考える必要がありそうなことは、
学習や模倣について。
と、今思いついたのは、
自分の存在の価値の設定。
演じるという事の自我と他我の共存の意味。
他我との関わり合いの中で自我の価値を設定する事。
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少々気になったので追加。
結局、自分自身でさえ、他我でさえ、何らかの対象でさえ、
それを認識するには脳内で再構築して作り出すしかないのだろうとは思う。
それは自分自身が行う思考であってもその対象になっているはず。
そう、思考する存在としての知能も、その自分も、思考することによる刺激の認識とその再構築によって
その知能の存在を確定しているという事になる。
つまり存在ありきで認識しているのではなく、再構築ありきで存在が認識されているという事。
そうすると思考における関連の再構築はそのまま思考の存在と認識になるということか、
つまり、思考中に言語でその関連を再現しているのは、その関連を作り出している事にもなるのか。
つまり、正しいか間違っているかではなく、もっともらしい、納得いく考えを作ることが思考であって、
それが、思考における目的と結果の関連を作り出す事という事か。
要するに感覚として腑に落ちればよい。という事か。
思考しながら頭の中でしゃべっている話に次にどういう言葉を続けたら思考が続くのか、
それを想起しようとすることが思考だということ。
実際私が行っている思考は頭の中で今これ、この書いている内容を頭の中で
しゃべっている事とまったく同じ内容を書いている。
書いた文章を読み直しておかしければ修正し、それを思考した内容として入力する。
でも、これは確かに思考している事には違いない。
今の思考の目的はと結果は、
私が行っている思考はどのようにして何を使って思考しているのか、
そして思考というものそのものはどういうものか、それについて思考している。
これはこれまでの思考によって、多分頭の中で言語をつかって思考した気になり、
その言語でしゃべっている内容で、自分がもっともらしいと感じる内容を認識できた時、
腑に落ちて思考の目的と結果が関連付けられたように感じる、認識する事、
それが思考であるという事。
ふと思い出したが、以前ゲームのシナリオのシステムについて考えていた時に
友人からPhaseを使ってみたらどうかというアドバイスを受けた事があった、
その時は忘れていたが、さらに昔にゲーム作成ツールでイベントを設定したシステムが
まさにPhaseを使ったシステムで
それを思い出してなるほどと思い良いアドバイスを受けたと喜んだ事があった。
この思い出した内容が、
それで今の思考に当てはめた関連であれば、何かを考えるときに、
それが新たな記憶となる価値であっても、思い出した価値の記憶であっても、
そのまま使える知識であっても、漠然とした概念であっても、
今、この思考においてその目的と結果の関連となるものであれば、
それは全体の思考における1つ1つの途中の関連、
つまり、思考を進めている、関連をより明確にするための1つ1つの関連、認識になっている、
それを今感じている。
つまり、思考と言うのは目的と結果の間の関連を作り出すことであるが、
その関連というのは言語、言葉で繋げられる認識なのではないかという事。
まあ言語だけでなくてもいい、他の感覚であっても、想像であっても、
つまり1つ1つそれを想起して再現する事で
誰もがその通りと思えるような関連を作り出す事、それが思考なのではないか。
誰もがというのは自分についても、他人についてもであり、
ただ、それは自分が理解できるのであればその思考は他人も理解できるはずというのは
勝手ではあるが、自分の思考なので仕方がないことにはなる。
恐らくPhaseシステムにしても、最初に考えた人は、物語の進展において、
各イベントを表記する方法を考えていて、何かの元となる記憶を思い出して
その書き方を思いついたというか、思考した結果を得たという事なのだろう。
ということは、あらゆる事象に対して思考する事を想定した場合、
汎用的な思考というものは、その思考の目的となる得るべき結果に対して
目的を開始して結果に到達するまで思考による関連をつなげていく事であり、
その材料となるのが、まずは手持ちの記憶にある価値、価値観、つまり記憶された刺激であり、
そこに無いものは、その思考の過程で別の目的としてその材料を認識するための目的となるという事になる。
この辺りの考えは、よく理系の学問であれば目的に達するために実験を行ったり、観測を行ったりして
材料となる認識される刺激を増やしていく事が正にこの通りの事になる。
要するに良く分からない思考の関連の材料についての要素を
正確な刺激として認識しようとする行為が実験や観測という事になる。
文系であれば想像や空想、仮想でその材料を作ることになるか。
つまり、人工知能に思考させる場合にも、これは当てはまり、
思考の為の関連の材料を持ち、
不足しているなら、それ自体を目的とした思考をすることができるようにするべきであるという事になる。
思考する目的と結果を要素に分解するというよりは、
その関連する要素を分解して、より正確な要素で置き換える、それが思考においての重要な活動ということになる。
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そうすると、
次回以降で考える必要がありそうなことは、
学習や模倣について。
と、今思いついたのは、
自分の存在の価値の設定。
演じるという事の自我と他我の共存の意味。
他我との関わり合いの中で自我の価値を設定する事。
に追加して、
思考における目的と結果の関連の分解について。
となるか。
さすがに疲れたので、
改めて今日はこの辺で。
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