2022/11/13
認識はそれほど正確ではない
人間の認識する対象についてどれだけの情報を
認識について必要とし、それを価値観として記憶し、
今度はそれを想起した時にどれだけの情報を想起しなおせるか考えてみた時、
人間は認識に対してあまり正確には刺激を認識していないと感じられた。
それについて考えてみる。
199の自分の認識について考えていた時に、
もう1つ、人間の知能はその自分をどれだけ正確に捉えているものかと考えてみた。
そしてふと、人間が自動車を誰かに伝えようと絵に描いたとき
どういう絵を描くのか考えてみた。
自分で自動車を描いて相手に伝えるなら。
今ならたぶん、自動車の横から見た図を描くだろうと思った。
横からみたボディにタイヤが2つ付く場所をへこませて描いて、
そこにタイヤを2つ描く。
最低限でもこれで伝わりそうな自動車の絵にはなる。
付け加えるなら、ガラスや、ヘッドライト、タイヤのホイールくらいだろうか。
もうこれで急にこれは何?と見せて聞いても自動車と答えてもらえるくらいの絵にはなる。
そう、それで思ったのが、
人間はある対象に対してそれほど正確な情報、刺激で認識していないのではないかという事である。
サヴァン症候群のある人は、一瞬見た風景をかなり正確に記憶し、
その記憶だけでかなり正確な緻密な風景画に仕上げる事ができるというテレビ番組を見た事を思い出した。
これは特異な例だが、
その点でもし、同じ様に私が一瞬見た風景を描こうと思ったら、
何かの得体のしれないモノや形の物体が地面から生えたようなその位の絵しか描けないだろうなと思った。
しかし、通常の認識というのはその程度でないと困るのではないかとも考えた。
つまり、形の特徴や情報を事細かに認識していたのでは、とっさの判断時においても
その正確な大量の刺激の情報が想起されることになり、
その情報の価値判断を行っている間にとっさの瞬間が過ぎ去ってしまう事になるという事である。
つまり、
緊急時に細かい情報の判断をしていたら自身に危険が及ぶことになりかねないというわけである。
だから、例えば前から何か大きなものが高速で向かってきた場合に、
それが自動車であろうが、大岩であろうが、熊やイノシシであろうが、
何か大きなものが高速で向かってくることだけが重要で、
つまりは、何らかの認識できる対象が高速で向かってくる、それだけが重要なのである。
そして、その判断の結果、避けるとか、飛び上がるとか、逃げるとか、
そういう目的の行動をとっさに決定することになるというわけである。
しかしである。
しかし、その認識するという事自体に対して、
そこで用いられる刺激の情報としては、
その要素としてかなり大雑把ではあるが、
かなり細かい要素に分解しているのではないかとも考えた。
つまり、私が描く自動車について、
ボディの横から見たなんとなくセダンっぽい形に、タイヤのへこみ2つ。
そして、丸を書いただけのタイヤが2つ。
自動車と言われてすぐに思い出す要素はこれだけである。
それは、自動車としての情報の要素としては横の姿とタイヤだけであるが、
ボディの色や窓の形、ヘッドライトやホイールの形等、そういうものは
また自動車に関係する刺激や価値となる他の要素なのであるが、
そういったものは、自動車だけに関係する刺激や価値、要素ではないということである。
つまり、
これが自動車であっても、ラジコンの自動車であっても、トラックや
はたらく車、ゲームの中の車であっても、その要素はそれぞれに関連しつつも、
単独ではそれぞれに共通した同じ1つの要素となる。
つまり、脳の刺激や価値、価値観において記憶するその刺激の要素は、
かなり単純化されて記憶されているということになる。
つまり、1つ1つの要素は単純化されていて大雑把なものであるが、
ある対象を認識する際はその要素の関連がかなり複雑にかつ多数が関連して記憶されることになる
というわけである。
逆にそれであるから、
どのような自動車を見ても、それが自動車であると分かるし、
これが決まった色や形だけが自動車であると認識する仕組みであったら、
とてもこの脳の容量では認識できる情報が限られてしまうということになる。
つまり、
人間の脳の認識はそれほど正確ではないと言える。
しかし、
人間の脳の認識は、その対象が持つ要素を事細かに分解して認識することが出来るという事になる。
それは、五感で認識できる刺激の1つ1つの要素について分解することができて、
それを1度に認識して画一的な認識を行わなくても、
特徴的な刺激の要素をいくつか集めるだけで、特定の認識する対象として構築することが出来るという事である。
今日はこの辺で。
TOPに戻る