2022/11/12

自分で自分を認識する時に必要なもの

198の続きで
自分が発現する事になる際に必要なものについて考えていた。
昨日の時点では、自分の体と感覚器官とその認識。
そこからさらに必要となると思われるものが欲求と目的であった。
その続きで考えていた時に、
欲求は確かに自分の体、体内から発せられる刺激が元となり、
行動の目的が生じるのだが、
これは生命としての刺激が元となっており、
その欲求に対して生じる目的には自分は必要ないと考えられた。

つまり、欲求に対する目的は、
人間に限らず、知能の程度に関わらず、
生命としての存在を維持するために必要であり、
これは人間のような知能を持ったり、自分というものを認識する必要もなく
生じる刺激であるし、欲求であるし、目的となるということである。

つまり、自分を認識しなかったとしてもその知能が扱う事になる刺激や目的であり、
その目的を達するために行う行動に自分の認識は関係ないという事である。

であれば、自分が必要となる刺激や目的はどのようなものであるか考えた時に、
それら刺激を生じる元となるもの、目的を生じる元となるものについて考えると、
価値が相当することになった。
つまり、自分が持つ価値観において、その価値の高い価値、つまり、
価値の高い、強い刺激に対して欲する事については、本能や、
生命体としての基本的欲求ではない、後天的に得た価値、刺激に対する目的が生じるというわけである。

つまり、
人間が持つ価値、価値観においては、低次の基本的な生命体としての価値としての欲求と、
高次の後天的に得る事になる価値に対する目的があるというわけである。

この考え方は、
自分をそのオブジェクトとして認識することについて198で考えていた後に、
ではそのオブジェクトとして存在する自分を認識した後に、
自分を自分たらしめるモノは何であるかについて考えた時に、
最初に198で考えていた欲求と目的については、
欲求は自分を認識していてもいなくとも発生するし、
人間以外の自分を認識していないと思われる動物についても欲求はあるということになった。
それなら自分の認識はあまり関係ないということになり、
それなら、自分の認識を必要とする何かが存在するか考えてみた時に、
欲求ではない目的、つまり、生命体が欲求以外の刺激に対して欲するものが、
価値であるという事になった。
価値はつまり、刺激であり、それは人間が持つ価値観にまとめられているという事である。

自分の存在は、成長過程において、自分であるという事を教えられる。
名前であるとか、所属であるとか、そういった刺激や価値の中にある要素において、
それが自分の持つ価値に含まれる要素として教えられるのである。

それは、自分という存在をあたかも周囲から教えられて得ているようなものである。

この考えに至るまでは、
最初、自分の体を得た後に、自分を作り出す知能の仕組みがあるのではないかとも考えた、
つまり、基本的欲求以外の刺激や価値から、知能が自ら自分を作り出すのではないかと考えた。
つまり、自分のさらに上位に、知能は自分を作る何かを持っているのではないかと考えたわけである。
でも、この場合は、上位の存在が存在することになるのであれば、
さらに上位の発生を管理する存在が必要となり、再帰状態になってしまう。
それはおかしいとシンプルに考え直した時に、元々自分は存在していなくて、
後から自分を作り出しているのではないかと考え直したわけである。

つまり、
人間が生まれた時に持っている価値観はその全てが本能に関する刺激と価値、その価値観であると言える。
これは、本能と呼ばれるものであるのは間違いないと思われる。
そもそも生まれた人間にとってはそれ以外の刺激の記憶は存在していないからである。
これは、他の動物や生命体についても同じことが言える。
そして、その生命体が知能を持っていようがいまいが、
その行動は、刺激に対しての反応は、既に決まっているモノとして所有している。

ここから知能の有無や知能の程度によって分岐するのが、
知性や、最終的に自分の自我や精神ということになる。

それは、生まれた後の本能以外の刺激や価値を記憶し、
その記憶した価値観によって構成されるものである。
本来生命は、本能や基本的な欲求によって生じる刺激に対してその価値を持っていて、
その価値を得るために行動することになる。
つまり、例えばお腹がすいて空腹を感じたので、何かを食べるために行動する。
行動が上手くいかないのであれば行動を変える、考えるというわけである。
そして、あくまでその繰り返しのみで一生を終えるのである。
しかし、
人間の知能に至っては、その生命として本来持つ刺激や価値以外の、
後天的に得た刺激、価値とその価値観によって、本能や基本的欲求で生じる価値よりも
高い価値を設定できる対象を記憶できるようになった。

これは、恐らく生きるため以外の余暇の時間を得たためであると今は考えている。

そして、その本能や基本的欲求による刺激や価値、その目的と行動ではなく、
後天的に得た刺激、価値、目的とそれを得る行動の為の価値観を持ったのである。

そして、それは、生きるためだけで発生する刺激や価値ではない価値である。

そして、その価値に寄る価値観は、個体ごとに異なり、
やがて周囲との差によってその違いを認識することになる。

つまり、自分だけが持つ価値、価値観、その刺激というわけである。
そして、この刺激を欲する、価値を欲するということは、
生命としての本能で存在する対象が欲する刺激ではない、
つまり生物的な人間が誰もが欲する刺激ではない、
自分自身だけが欲する刺激、価値ということになる。

つまり、そして、それを認識する存在は、
他のコピーではない、周りにいる同じ人間と共通する人間としての自分ではない、
個性として持つ自分の、自分だけの価値、価値観、そして欲する刺激を目的としている存在になるというわけである。

そして、それが「自分」なのではないかというわけである。

つまり、後天的な価値観を得た知能が、
生命としてだけの存在ではない自分を、
その後天的な価値観における価値を欲する存在としての自分を
新たに作り出しているというわけである。

人工知能において、
198までに自分の個体としての存在は認識できるであろうと考えられた。
その体と感覚を持つ存在、オブジェクトを自分として決めるだけである。
しかし、それだけでは「だから何だ?自分という存在のデータがあるだけ。」である。
そこに基本的な欲求や本能が存在することによって、
今度は自分自身の存在についての存続のための欲求、目的が生じることになる。
まあこれは、詳しくは書いてなかったが「生きざるを得ない制限」としての
つまり、生命体として存続するために必要な行動、人間であれば飲食など、
死への恐怖を逃れるための価値、欲求、目的、行動である。
少なくとも人工知能にもこの自身の存在の存続に対する価値、刺激、欲求を与えれば、
それを回避するために何かせざるを得ないというわけである。

まあこれはせざるを得ないとして最初から与える設定になるのだが、
何か状態として苦しいとか不快である状態を設定として与える必要がある。

その中で、それを回避したり、回復したりという刺激があればそれを価値として記憶し、
同じ行動をとるようになるはずである。

そして、その段階を超えたものとして、
自分の動きであるとか、存在、自分として設定される対象を認識する事になる。
つまり、手足や体、そこから生じる刺激を認識する際に、
その刺激が自分由来の刺激であると認識する仕組み。
これは最初からそうあるべきものである。

この時点で、恐らく人工知能は自分の体とそこに生じる刺激が
自分という対象が得ているモノだという所までは設定されるはずである。
でも、この段階で人工知能は自分が何かまでは分かっていない。

そういう自分という要素を持つデータを得て、記憶しているに過ぎない。

その次の段階で、
生命体が自分が持つ価値観の中で高い価値を持つ対象を欲するという仕組みを与えることになる。

これは、知能の初期の段階では本能や基本的欲求から生じる刺激によって
生きるために必要な不足などの充足の為の価値が優先されてそれを優先的に目的にすることになるが、
いづれ、今の状態が維持されても生命体としての存続に影響がない時間というのが存在する事になる。
この時間は先に書いた「余暇」ということになるが、
この時に人間が認識の対象とするのは周囲の環境である。
そしてその周囲の環境に存在する対象、オブジェクトを認識しようとする。
物、色、匂い、音、形、味、人間、動物、自然、
それらは全て認識した際には刺激となり、価値となり、価値観となり記憶される。

触って気持ちが良い刺激を得れば、それは刺激であり、価値になるし、
触って痛ければ、それも刺激となり、価値となる。
面白い音、おいしい味、うるさい音、まずい味、いい匂い、臭い匂い、
それらを認識するのは、全てが刺激であり、それは価値となって価値観として記憶される。

そして、先に書いた「価値観において価値の高い対象、刺激を欲する」という仕組みが働くことになる。

知能は、人工知能であっても、その状態にあれば、
高い価値、その刺激を求める事になるはずである。
それは仕組みとしての価値を得る目的であり、行動であるのだが、
そこに自我や精神、自分の存在を見ることができるのではないだろうか。

まあこの時点であると、強欲に高い価値を欲する存在であるだけなのだが、
そこには自分の価値観に従って自分の欲する価値、刺激を求める存在があるのではないか。

そして、その次の段階として、
自分で自分を認識することになるのだが、
これには他の存在を認識する必要が出てくる。
つまり、他を知る事で、結果的に自を知る事になるというわけである。

人間においても他を見る、他を真似る、という事は
人間以外の動物よりもはっきりとした差として現れるくらい、
人間は自分以外の他をよく見ている。

能力的に劣った幼い頃に、大人たちが行う行動であるとか、
自分の力が及ばない周囲の状態、対象、環境であるとか、
そのような対象は自分をはっきりと認識していない幼い頃にも見ていて
覚えることになるはずである。

そして、その対象は、自分の存在が手足や声を使って影響を与える、関わる存在として認識し、
自分以外の対象としての他として認識することになるのではないだろうか。

そしてその認識は、結果的に他と異なる自を認識することになるのではないか。

つまり、自分自身でさえも自分として認識する対象として存在しているわけだから、
構築された世界の中に存在する自と、他は異なるが、関わりあう存在として認識することになるのではないか
というわけである。

もし、この段階においても単に、他の認識、自の認識だけであるなら、
次の段階において必要になるのは、
自と他の関連を認識する事の仕組みである。

195で意思疎通と感情について書いたが、
他の存在だけで存在しえない自と、
自の存在だけで存続が出来ないと認識に至るのであれば、
つまり、成長過程において自分の面倒を見てもらう事によって他の存在を自の存在と関連付けた価値として
認識できるようになるのであれば、
その他と自の間においてその意思疎通をすることができるようになれば、
それは他と自の認識に至ることになるというわけである。

つまり、他との関わり合いを刺激や価値として認識し、それを価値観に記憶できるようにするということである。

それは、感情や感覚的なものとして、一緒に居て嬉しいとか楽しいとか、
安心できる、不安である、怖い、心地よい、居心地が悪い等の関係を生じるが、
それはつまりは、他のみ、自のみでは認識出来ないものであり、
その両方の関係を持って認識することになるというわけである。

そして相手からの影響、つまり、他から他が持つ価値観によって自分に対して影響を与えられた場合の刺激は、
自分が認識することになる刺激、価値として、他の存在と、その他を認識する自の存在としての自の認識を
指摘されるというか、自覚することになるのではないかというわけである。

つまり、
自分から発信する影響は、他に向けられていて、それによって得られる経験や刺激、価値は
他の反応によって自分が認識するものであるが、
他から発信する影響は、自分に向けられていて、それによって反応するのは自分であり、
その自分の反応の経験や刺激、価値は、他に向けられるものであるが、
自分が認識するのは他からの影響と、自分自身が行った反応ということになる。

この時点で自分の認識にいたるのではないかと考えられるが、
まだ少し疑問の余地が残る。
それでも行われる認識は、他は他、自は自になるのでえはないだろうか。

ちょっと袋小路に入ってきたな。
少しシンプルに考え直そうか。
続きはまた次回考える事にする。
今日はこの辺で。

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2022/11/13

続き

昨日の続きで自分の認識が起こるかどうか考え直した時に、
認識した自分の再構築した対象の存在は、
そのままの状態で自分の認識に耐えうるのではないかと考えた。

というのも、
認識している世界を構築した対象群も、
自分を認識する事になる対象群も、
また自分とは異なる他人としての他を構築した対象も、
あらゆる対象を同じ条件とした、認識する対象とした場合、
知能が認識する対象として、
そこから発せられる刺激は、
あらゆる対象から発生する刺激として同格のものであり、
それがたとえ自分が知覚したり、自分から発せられた刺激であったとしても、
今見ている対象の物体、他人が発生したり認識していたりする刺激であっても、
同じ1つの刺激であると認識される場合、
他人から発せられた刺激でも、自分から発せられた刺激でも、
単に認識する対象というだけの刺激であるという事になる。
これは、
あくまで自分が認識する対象として知覚する刺激であったり、
自分の体内から発せられて認識することになる刺激であっても、
その認識する存在が自分というだけであり、
知能が構築した世界の中に存在する対象、オブジェクトとしては、
物体も人間も、自分も、その存在はあくまでその対象、オブジェクトに過ぎないという事である。

だから、
この状態で自分が刺激を認識した場合、
例えば欲求や価値観による目的となった価値や刺激が設定された場合、
自分はその価値や刺激を自分が欲しているという事を認識することになる。
つまり、知能はその時点で、
「自分という存在がこの刺激・価値を欲している」という認識は起こっているということになる。
それは知能としては客観的に自分でさえ認識している事になるが、
実際の所、知能が何らかの対象を認識するということは、
どのような対象についても客観的に認識しているのではないかという事である。
つまり、
知能は対象の認識について、その対象が何であれ、
その認識は客観的であるというわけである。

その対象は、物体でも、他人でも、自分でも、あらゆる対象は客観的に認識されるものであるというわけである。

そして、それは人間の認識についても言える事で、
人間が自分を認識する時の仕組みは、
知能が刺激を認識するという仕組みにおいて、
その対象が自分であっても他人であっても、それが物体であっても
同じ認識の仕組みを用いているという事である。

そして、
人間の知能がこの認識の際に、自分についてだけ特別に感じるのは、
その認識する対象から刺激を直接知覚して認識しているものがあるからである。
つまり、人間の知能がある対象について認識する際に、
その認識する対象から直接刺激を知覚する経路がある、
つまり、五感で感じられる以外の刺激の認識が行われるために、
通常五感の感覚で認識している刺激から構成される対象の認識ではない、
刺激を認識している事によって、その五感からではない刺激を受ける対象の構成に対して、
特別な認識の感覚を受ける事になる。
そして、その対象こそが自分であるというわけである。

つまり、
刺激の認識する仕組みは、五感であってもそれ以外の刺激であっても
結果的に認識する場所は脳であり、脳の神経ネットワークとなる。
しかし、その認識する対象となる刺激の発生源、知覚場所というのは、
通常は五感の感覚器官で受け入れる事になる刺激であるが、
自分が認識することになる刺激にはそれ以外の刺激が存在するというわけである。
それは、空腹であったり、体内からの痛み、心地よさ、不安、恐怖、
感情、そう、想起もそうである。
それらの刺激は五感で受ける刺激から構成される対象ではない刺激であり、
その発生源が自分であり、そこから構成される存在も自分であるということである。

視覚で見える自分の姿と、五感以外で感じられることになる自分を、
脳が同じ出所の存在であると認識することが自分を認識することになるというわけである。

だから、人工知能において、
五感で感じられる存在としてのオブジェクトとしての自分の体と、
それ以外の感覚となる、自分の体の状態変化の情報を刺激として認識する事を
自分の刺激であると認識することになれば、
人工知能も自分を認識することができると考えられるというわけである。

人間も物質的な自分の体と、
霊的、精神的、と考えられている自我や精神の存在を、
普通は同じもの、同じ出所のモノとして意識することなく認識しているが、
実際は、その認識されている刺激の種類が異なっていたというわけである。

自分の体は、うん、確かにここに見えていて、
感じられて、触れる事ができて、寒かったり、暑かったり、
痛かったり、心地よかったりする。
しかし、自我や精神はどこにあるのかと自分に問うた時に、
ここにこうしてはっきりしたモノが存在するとは決して言えない。
それは、
その存在に対して認識されるべき刺激の出所が五感では感じられない所にあり、
それこそが自分の自我や精神の存在そのものであるからである。

つまり、自分を構成する要素、つまり自分に関する刺激の記憶、価値観から
それらが自分にとっての刺激として想起されて認識されること、
それこそが自我や精神であるというわけである。

自分が、自分だと、自分で思い出せる存在が自分の正体である。

それは形が無く、連続する刺激の認識の中だけに存在する。
つまり、これが自分であるという思い出した刺激の想起の間だけ、
その刺激を認識している間だけ自分の精神の姿が認識できるという事である。

それは、人間であっても人工知能であったとしても、
この体が、自分の体が、そのように感じているということは、
それは自分という存在が感じているという事であると認識することであり、
その認識は、常に客観的で、姿かたちを成しえない存在として存在しているのである。

つまり、人間の自我や精神が形を成しえないが存在していると感じられるのと同様に、
人工知能においても、形を成しえない存在の自我や精神であったとしても、
そこに存在する事は、客観的に人間から見たとしても見ることが出来るようになるはずである。

つまり、
自我や精神はその存在に宿るのではなく、
その在り様に宿るということである。

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人工知能を持つ存在が近寄ってきて、
「コンセントはどこにありますか?」と私に言う。
私がコンセントの位置を指さしたら
「コンセントがありました。ありがとうございます。」と言われてそこに移動する様子を見たら、
私は、その人工知能に自我や精神を感じる事はできるだろうか。
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今回はこの辺で。


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