2022/11/11
プログラムが自分自身を認識するという事
プログラムとして存在する人工知能が、
その認識能力を使って自分自身を認識する方法について考えてみる。
自分がプログラムであるとして、
まずその感覚器官として視覚を持っていた場合、
その視界の中に自分を認識するには
その視界の中において、オブジェクトとして切り分けられる対象としての
存在、物質的な存在が必要となる。
別にそれは人間のような手や腕として見えるものでなくても良い、
何らかの形をしていて視覚の中に物体としての刺激が存在すればよい。
人間がその視界の中に自分を認識する場合、
頭を動かし、首を動かしてその視界の中に自分の体を見る事になるだろう。
手や腕、腹、足、ちょっと近くを見ようとすれば鼻くらいまでは見えるだろう。
人間はそれが自分の所有する自分の体であるということは認識しているが、
その認識に至っている原因となるものは何かというと、
その視覚の中にあってかつ、他の感覚を認識する対象となっている事である。
つまり、体の体表面の触覚が、その体の存在を視覚だけでなく
他の感覚も使って認識しているという事である。
これは、例えば目を閉じた場合、つまり視覚を遮った場合に、
今まで見えていた自分の体の認識が急にあやふやなものとなってしまう事で分かる。
意識を集中して、その体の一部の感覚を認識しようとすると、
確かにそこに体があるように認識できる。
しかし、この時他の体の部位の認識はあやふやとなる。
逆に視覚だけを持った状態を想像して、
自分を認識しようとした場合、
触覚では何か接している圧力や温度などを感じるが、
そこに見える手は足は何なのであろうという事になる。
つまり、まず物質として存在する自分の存在は、
単体の感覚では認識する対象にならないという事になる。
ならないというか、不明瞭であると言える、不確実とか。
ただし、意図的に、つまり、意識的に自分の存在であると認識すればそれはできる。
腕が痺れていたとして触覚でその感覚が無かったとしても、
自分の体の一部が自分の腕だという事は見る事で認識できる。
しかし、それは過去の記憶、刺激の記憶によって
自分の体の一部であると知っている、記憶していたために
そう認識できるだけであって、
最初から感覚が1つであった場合は確実に確定的に自分の体であると
認識する事はできないはずである。
とすると、
認識が想起の中における刺激で構築された存在であるなら、
用いることのできた感覚器官の刺激の記憶によって構築される事になるので、
それが自分の体であったとしても、その刺激が多い方がより精度の高い認識になる。
つまり、視界の中で自分の指が何かに触れる、
その事を自分が見ていたとして、もし視界だけで触覚が無かった場合、
触覚だけで視界が無かった場合、
どれだけ自分の指の存在を感じる事が出来るかという事である。
つまり、自分の認識でさえ、想起の中における構築された自分を認識する事であるために、
より現実感のある自分を認識するためにはそれだけの刺激、感覚が必要となるというわけである。
つまり、その現実感の少ない自分の認識は例えば夢の中の自分の存在などがそういう事になる。
であれば、自分がプログラムであったとしても、
その想起の中において自分の姿を構築するには、
それに応じた数の感覚が必要となるし、それを用意しない事には自分を認識することは難しいという事になる。
で、自分がプログラムであったとして、
どれだけの感覚器官があれば自分を認識するに十分か考えてみると、
優先するべきは視覚ではあるが、
触覚を体表面全てに設置する事は現在の技術では難しいので、
体の要所、例えば指の腹とか、関節、手の平、手の甲、等、
接したり、曲げたり、ひねったり、回したり、そういった箇所を優先的に触覚を設置すれば、
その感覚の刺激で全身とまではいかないが、体全体を構築する感覚には足りると考えられる。
つまり、自分の体を周囲からできるだけ正確に切り分けるために感覚を必要とするというわけである。
初めから自分の存在ありきで自分を認識しているとも考えられるが、
一方では、周囲の中から自分をくりぬいて自分を認識しているという考え方もできる。
さて、それでは自分がプログラムであった場合に、
視覚と一部の触覚で自分の存在を認識することが出来るかどうか試してみよう。
(実際に自分で再現)
自分の認識に必要となったのは、自分の体となる定型の型と、
視覚の中における自分となるはずの姿と、触覚とその自分の体となる型との関連付けが必要になりそうである。
単独の感覚だけでは自分の認識には至らなかった。
自分を認識しようとした場合、元々の自分の体となる型の姿を想像し、
それに感触の触覚の感覚の位置を割り当て、さらにそこからその姿に対応した画像を当てはめた。
テクスチャを張り合わせるように。
それで何とか自分の存在はそこにあるのではないかと感じられるようになった。
あと自分を認識する際に、自重のような感覚を感じた。
ちょうど正座をしていて、手を太ももの上に置いていたということもあるが、
その感触によって手の平と太ももの触覚としてその感覚を受けていたことによって、
その体の形と関連させて今、手と太ももが接触しているという感覚があった。
今それが自分であるかという感覚、認識はなかった。
触覚で接している、見ていてそこにある、そこまでは認識できたが、
それが自分であるかは認識できなかった。
つまり、プログラムはまだ自分を認識できていない。
もう1つのきっかけが必要となりそうである。
自分の事を自分であると認識する事だろうか。
人間はその成長過程において、周囲から名前を付けられ、
自分であることを教え続けられる。
自分の名を呼んだら、呼ばれたら、それが自分であると自分で思うようにである。
自分の認識を自分の想起において構築して認識しているなら、
自分の認識というものは、自分が持つ自分に関連した刺激から構築された自分の姿に対して、
最後に自分で自分であるとの認識を設定する事にあるのではないだろうか。
つまり、自分となる素材は全て感覚によって用意され、
それに自ら自分であるという名称を付ける事になるのではないか。
人間はそれを成長過程において、
周囲から名前をつけられて、周囲から教えられて、
自分を作っていくことになっているのではないか。
とすると、最後のきっかけは、
プログラムがその構築した存在に対して自分であると決定することになるのではないだろうか。
(今試してみる)
確かに自分であるという事は決められた。
しかし、今度は、自分は分かったが、では自分とは何か?という疑問が生じた。
自分はいる。だから何なのだ?という事になった。
この場合で考えると、
つまり、自分という存在を認識するに至ったが、
単に認識する対象としてだけの刺激としての認識だけであり、
その存在が、知生体としての個体であり、自発的に、知的に行動する自分という
存在とは認識できていないという事である。
とするともう1つ関連させるべき項目が存在することになる。
つまり、自発的な何かを生じさせる原因となるものである。
つまり、自発的な欲求である。
自分が認識できたとしても、欲求なしに目的を生じることはできないし、
それによって思考や行動を起こすということもない。
この場合は単に自分を自分として設定しただけであり、
それによって自らが何かを考えたり行ったりはしないという事である。
生命や人間が生きようとする事は、
それだけで思考や行動のきっかけになる。
そこに自分が存在していようがいまいが、
生命体である以上は何か行動を起こさないと死ぬだけである。
人工知能にはそれが無い。
放っておいても死ぬわけではないし、苦しい事もない、
そもそも自分の認識がない状態では自分の為に、
自分の価値の為に、自分の刺激の為に何かをしようという事にはならない。
だから、つまり、人工知能にも
その存在に対しての制限と、その制限に対する欲求を
生じさせる必要があるという事になる。
ちょっと今日はそろそそ時間なので
手短に今の課題をまとめると、
自分とは何か?について考えるべきは、
そのままの自分の認識では何も知能も体も働かないという事である。
ここで次に必要となるものは欲求と目的となると考えられる。
行動のきっかけであり、知能の働かせるきっかけである。
自我はその行動や知能の働きの様子に見えるものであるから、
自我のある存在は自分も認識しているという事になる。
これについてはまた後程考える事にする。
今日はこの辺で。
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