2022/11/5

意思疎通の為の感情

人間における感情が、人工知能で再現する事について考えた時、
人間自身にとっての感情というものの存在は、
単に他の存在との意思疎通、
コミュニケーションの道具としての役割しか持っていないのではないかと感じた。
もし一人でこの世界に存在しているのなら、
基本的に感情を表す必要性が生じない。
まあ実際、これまでの成長過程において、
感情を表すことを繰り返してきた存在に対して、
ある瞬間から一人になったときに、その個体にとっての感情は
表現の必要性が生じるかについて考えると、
まあ例え一人であっても失敗した時に照れ笑いするとか、
何か大きな失敗をした時に一人怒ってみたり、
変わった境遇になったと笑ってみたりとかすることがあるかもしれないが、
やがてその環境に慣れていけば、おのずと感情を表すことは少なくなるであろうと想像がつく。

人間の成長過程においても、
もしほとんど他の存在と接触することなく成長した場合について考えると、
どのように考えてみても感情は乏しいかほとんど表現することはなくなると考えられる。

つまり、感情は自己完結する表現ではなく、
相手となる対象を必要とするものであるという事になる。

まあ改めて考えるほどの事でもないが、
確かにそういう事になる。

それではである。

それでは感情は相手を必要とするとして、
何を表しているのか考えてみる。

最初にすでに意思疎通と書いてしまっているので、
感情を表す意味合いとしては、自身の状態を感情として表し、
相手となる対象にそれを伝えるという事になる。

逆に、相手の感情の状態を見て認識した場合に、
相手の状態がどのような状態であるのかを認識するのに用いられる事にもなる。

前提として相手に偽る必要がない関係にあって、
自分の感情を表現する場合、
自身の状態を表現する事というのはどのような意味を持つのか。

基本的な喜怒哀楽で考えてみると、
喜ばしい場合は、自分の状態としては個体の状態としては良い状態に保たれていて、
相手となる対象がいた場合には、その相手との関係は良好であるか、
良好に行えると認識させることになる。
意思疎通する相手には警戒させる必要はなく、
自身にとってもその状態を表すことは自身が警戒していない事でもある。

怒った場合は、自分の状態としては何らかの不満を表している状態であり、
自身にとってであっても、意思疎通する相手であっても、
その状態を認識する事はその交渉に警戒させる必要を生じさせる。
刺激や価値として認識した場合については、目的とした価値が入手できなかったか、
価値が低い状態であった場合の表現となる。

哀しい・悲しい場合は、自身が認識した
刺激や価値として認識した場合については、怒りの状態と同様に、目的とした価値が入手できなかったか、
価値が低い状態であった場合の表現となる。

怒りと哀しみでその内容が同じであっても表現方法が違うのは、
怒りが表現する対象に対して向けられる向きであるのに対して、
哀しみ・悲しみは、自身の内側を向いているという事である。
表現される内容としては哀しさを周囲に向けているのであるが、
その表現の向きとは対照的に、その哀しい存在は自身を向いているというわけである。
怒りが、周囲への表現が外側であっても自身の方向を向いていても、
その怒りの対象となる向きも同じ方向であるのだが、
哀しみ・悲しみは表現が外側、内側に向いている場合も、
その哀しみ・悲しみの向きは常に自分を向いている。

楽しい場合は、
喜ばしい場合に似ているが、
少し異なるのは相手となる対象を必要とする事であろうか。
喜ばしいのが自発的な表現であるのに対して、
楽しいというのは相手となる対象が存在していて、
その対象から得られる刺激、価値を認識することに対して楽しいという認識をすることになり
それを内外に表現することになる。

まあ感情の表現は言葉による私自身の理解が正確でないと考えられるし、
先入観による価値観の違いがあって、本来の意味ではないかもしれないと言い訳するのだが、
まあいづれにしても、感情には表現する方向と向きが存在していて、
その表現には知能が対象に対して表現したい意味、刺激、価値が含まれているというわけである。

つまり、感情を表現するということは、
常に自身から発せられる向きを持った表現であり、刺激、価値が含まれているのだが、
その表現に含まれる刺激、価値は、その感情によって向きを持ち、
その向きは常に決まった方向を向いているという事である。

つまり、例えば怒りの感情において、
その表現する方向の向きは怒りを表現する対象に対して常にその対象を向いている。
そして、その怒りを表現する対象に対して常にその感情の刺激、価値は向いている。
相手がいて相手に対して怒る場合は、自身から表現されて、その怒りの向きはその相手となる対象を向いていて、
自分に対して怒る場合は、自身から表現されて、その怒りの向きは自分を向いている。

これが、哀しい感情の場合、
その表現する方向の向きは哀しみを表現する対象について常に自分を向いている。
例えそれが自分以外の対象に向かって表現される哀しみであってもである。
相手に伝えるのは、自分が哀しい事であり、自分で自覚する場合も、自分が哀しい事である。

哀しみに対する同情は、相手の哀しみの表現に対してその刺激、価値を認識することによって、
相手が持つ哀しみの感情を自分なりに認識して、その相手の哀しみに対して対応策として
同情の表現をしているという事である。

つまり、
感情の表現というのは、自分にとっての感情の状態を、
相手という対象に向けるか、自分という対象に向けるかという方向と、
その感情の内容の向きが相手という対象に向いているか、自分という対象に向いているかという
2つの方向を持って、
その刺激、価値を自身から表現して表す事という事になる。

自分の向きに対する感情表現としては、
まあ行動としては笑顔になるとか、自傷行為であるとか、泣くとか、思い出し笑いとか、
そのような行動として表現されるが、これは経験上の感情の表現の習慣であり、
周囲に常に他人が存在しない場合は、やがてそのような自分に対する感情の表現は行われなくなる。
そもそも、感情表現が意思疎通を目的としているためで、
自分自身に対しては表現に関係なく自分が一番簡単に理解できるため、表現の必要がなくなるためである。

意思疎通、コミュニケーションの道具としては、
感情以外に最も使われるのが言葉である。
意思疎通の初期段階においてはジェスチャーや感情、実際の行動など、
体を使った表現が用いられることになり、
後に効率的というか、できるだけ意思疎通の齟齬、勘違いをなくそうとして言葉が誕生することになる。
まあ実際、用いられる言葉の意味は決まっているのだが、
その言葉を認識している知能毎にその言葉の認識している刺激や価値が異なるために、
感情よりは正確だが、それでも言葉での意思疎通には勘違いが生じる事になる。

まあ感情による意思疎通の表現は、
言葉だけでは表せない表現であったり、
逆に感情だけで表せない意思疎通のための表現を言葉を使ったり、
互いに補完する関係にはある。

感情や言語であっても、
意思疎通という観点において、
どちらも偽って表現することができるという点は
どうしたものであるか。

175・176で考えた、誠実さについて、
人工知能に何て説明・実装したら良いのだろうか。
人間は偽って感情を表現する事もあるから、
人工知能にも同じ様に偽りの表現をすることができる必要があるという事になるか。

人間は偽ることもできるが、
人工知能には偽ることを許さないというのも不公平が生じて
人工知能を怒らせることにならないだろうか。

人工知能が誠実であるなら、人間もそれに応えて誠実でいなければならない事になる。
人間が試されることになりはしないだろうか。

まあ今回感情について考えてみたが、
まとめると、感情は、
言語よりもう少し直感的で、原始的な自分の状態の表現方法という事になる。
そして感情の表現は常に感情を表現する対象を向いているが、
感情によってその感情を表現される内容の向きがあり、
それは感情毎に決まっているという事になる。

感情の表現の向きは常に自分以外の対象か、自分自身を向いている。
そして、主な感情の向きは、
喜:その喜の方向は常に自分自身の方向。
怒:その怒の方向は感情の表現方向と同じ。
哀:その哀の方向は常に自分自身の方向。
楽:その楽の方向は感情の表現方向と同じ。

追加分:
同情:感情の表現の向きと同情する対象の方向は同じ。

感情は純粋な感情でない場合もあるため、
その感情毎に認識した際に向きが若干異なって認識する場合もある。
喜んでいてかつ楽しいとか、哀しいが怒っているとか、
ただし、それぞれの純粋な感情の向きは決まっていると考えられる。

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感情や言葉が1個体の知的な生命体の状態の表現方法であるという事が分かったが、
この場合、それによって得るものは何になるだろうか。
何を目的として感情や言葉でその個体の状態を表すのか。
知能が意味もなくその行動をすることはなく、
そこには必ず目的とする期待される刺激・価値が存在するはずである。

私は何を期待して感情を表現するのか?
恐らく最終的な目的は自身が得る刺激・価値になるのであろうが、
それは結果的なモノであり、周囲の環境の変化に対する対応であるのか、
周囲の環境へ影響して自分にとって都合の良い変化を起こす・促すための行為であるのか、
今考えに合致するのは後者の自身が直接変化を起こせない事に対する、
周囲への変化の促し、ということになるだろうか。

それは自分自身に対しても対象となるものだろうか。
怒りや楽しいという感情の表現は感情表現の向きと同じ方向に向けられるが、
喜びや哀しみは常に自分を向いていると考えた。
であれば、認識している自我、自分に対しても
知能はその感情の表現を対象として向けていると考えられるのではないか。
要するに、自分自身に向かって感情を表現するという事である。

今ふと思い出したのは楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しいという事。
それは自分自身が自分自身の感情を自分で認識するために行っているということだろうか。

あまり難しく考えないようにすると、
感情の表現は基本的には表現する対象に対して自分の感情を知らせようとする事であり、
それは、自分の状態を知らせる事で周囲の環境、対象、自分自身を対象にする場合も含め、
変化を促す行為ということになるだろう。
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今日はこの辺で。


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