2022/10/31

自分の始まりとなるもの

昨日から自分で自分の存在に気が付くようになるための
最初のきっかけについて考えていたのだが、
それにはどうやら欲求が最初にあるのではないかという考えに至った。
つまり、
自身の個体としての存在に対して、
周囲や体内から刺激を受け取り、
その情報を認識しているだけではどうも自我には到達しないように感じた。
淡々と刺激の情報を処理することになるのだが、
そこに自分の存在は必要でなかった。
しかし、ここで欲求の認識となると、
その状態は自身にとって、
つまり、自分の存在というものを認識しないことには
欲求とその充足に対する刺激の認識が成り立たないという考えに至る。

そして今日、その欲求について考えていたのだが、
どうも欲求というものは結果的に欲求と呼んでいるだけのもので、
そのさらに基になっているものは、生体における不足の情報ということになった。

生体にとっての不足は、そのまま価値としては低い状態であり、
その不足を充足させるための目的となる。
この目的こそが結果的な欲求と呼ばれるものになっているのだろうという考えに至る。
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どうも知識としての言葉が先行している場合、
本来の思考による自由度が減り、
新たな発想に至らないということをこれまで感じていた。
自我や精神は存在しているモノとして考えていると、
それが本当に存在していなくても先入観で存在している前提で思考しなくてはならなくなっていた。
今回も欲求というものがなるほど存在していて、と、最初に頭にあったので、
その存在自体を疑わずにいたので今日まで思考が進まなかったということになる。

でも今回、欲求がそもそも存在するのかについて考えてみて、
欲求というのは目的であり、そのさらに内部にあるものが、
生体にとっての不足の情報だということに行き着いた。

そして生体にとっての不足は価値の低い状態であり、
それに相対する状態が充足という状態であった。

充足はプラスの価値ではなく、今現在考えているのはゼロの状態である。

つまり、生物がその感覚的な価値の状態において、不足か充足、
つまり、マイナスか安定した平衡の状態かということである。

そして、さらに、その状態の価値判断においては、
プラスかマイナスの比較ではなく、
比較する対象どうしの相対的な価値比較ということではないかという考えになった。
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で、話を戻して、
欲求が自分の認識にどのように関わっているかということになるが、
欲求としてのある状態の不足したという情報があって、
それを生体が充足させるためにその状態を改善させる目的が生じた場合、
その欲求という目的は、自ら達せなければならない事となる。
つまり、
その不足した状態を認識した場合に、
それを充足させるためには自らの中に目的を持ち、
その目的を充足させるための行動を行わなくてはならないという事になる。

つまり、欲求としての目的を持っているだけの状態では
受動的にそれが充足されるのを待つだけであるが、
自ら目的を充足させるためには、自ら行動を行わなくてはならないという事である。

ということは、生体としての存続を求めて、その維持の為には、
何らかの行動を行わなくては死に至るということになる。
そうなると自分が困るので何とかして不足を充足させようとするだろう。

そこで登場するのが自発的な行動である。
この行動は欲求や目的として存在する不足に対する対応であり、
それは自らが行わなくてはならない事である。

手を動かしたり、言葉を発したり、泣いてみたり、怒ってみたり、
不足が充足されるか、諦めるまで続くことになる。

もし不足が充足されるのであれば、
その欲求や目的に対して自ら行った行動は正しいということになり、
それはそのまま経験が記憶され、その不足に対する対応としての経験、価値観となる。

もし不足が充足されないのであれば、
別の行動を起こす必要に迫られる。
生体であれば死を回避しなければならないからである。

で、

この不足の充足にどこに自分が存在するようになるのかという点は、
とりもなおさず、自分から行動する所である。

自発的に何かをする、つまり、
自分が目的をもって何かをする、
そこには自分が存在している。
自分の存在なしにそれはできないはずである。
人工知能のプログラム的に、自動的に何か情報を収集するということではない。
個体である存在に知能が備わり、
その知能が不足を認識した事に対して充足の為の行動を起こすこと、
そこに自分が存在しているということである。

つまり、
その存在が存続、維持されるために必要となる不足に対する充足を行うために、
欲求、目的を作り出し、その目的の為に自らが行動する事。
それが自分の存在になるというわけである。

それはプログラムでしなくてはならない事ではなくて、
せざるを得ない事である。

漠然と続けることに自分の存在は不要である。
行っても行わなくても良いならそこに価値の不足も充足も存在しない。

せざるを得ないから自分の存在が必要となる。

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人間はその対象を認識する際に刺激、価値を必要とする。
自分自身の存在に対してもそれは同様であり、
自分の存続、維持に対しても刺激で情報を得て、
価値判断の対象となる。

そして、逆に、それが何であっても価値が存在するのであれば、
それは認識する対象になり得るという事でもある。

つまり、自分に対して価値が設定できるなら、
それは自分で自分の認識ができる、
つまりは自分の存在を自分で確定できるという事である。

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価値の比較について

価値の比較は2つの対象にとっての相対的な差であり、
プラスやマイナスではないという考えに至る。

以前、差別やその寛容について考えた時に、
2つの対象の価値の比較には、
その絶対値としての大きさと、ベクトルの向きが存在すると考えたが、
やはり、その価値の大きさとしては符号ではない
絶対値としての大きさがその価値の大きさであり、
比較する要素の向きに対してその価値のベクトルが働き、
価値の比較の際の差としてその価値の差が生じるという事である。

この辺りの考えはそのまま有効であると考えられる。

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自分の基本的な認識について

人間がというか、生命がその存続と維持の為に活動しているのは、
生きざるを得ない制限の中で生じる変化の中で、
その不足という刺激、価値を感じ、
その不足を充足させるために自分が欲求、目的をもって活動し、
その不足を充足させようとする事。
ということになる。

そして、その活動の中で認識することになる自分の存在は、
192で考えた想起で構築された世界の中にある想起されて構築された自分の存在
ということになる。

それはかなり客観的に見られる自分である。
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今日はこの辺で。


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