2022/10/30

刺激と価値観の間の自分

191で刺激から価値に変換する時に
自分が発現するという考えに至ったが、
その変換時に発現する自分の存在について
もう少し詳しく考えてみる。

昨日の191の時点で刺激から価値に変換される事、
つまり、刺激が脳内の刺激の記憶である価値観を経由し、
その刺激の価値が設定されることになる際に、
その価値観の働きとして、その個体が持つ固有の刺激の経験、
つまり、その蓄積された結果としての価値観が、
その知能を持つ個体の固有となる自分の存在について定義する事になるという考えに至った。

刺激の認識に際しては、知能は結果的にはその刺激に価値が設定された後に
刺激として認識することになるのだが、
その刺激は自身が経験としてもつ価値観を一度経由し、
その自分となる個体が持つその刺激に対する価値が設定された後となる。
そしてこの刺激は、自分の知能が自身の定義による価値を設定した事により、
自分が受けた刺激であるという認識に至ることになる。
つまり、
単なる感覚器官から受けた刺激が、脳、知能、価値観を経る事によって、
その刺激の本来の意味としての情報だけでなく、
その刺激を受けた個体、知能を持つ個体が受けたという情報が付加され、
刺激として知覚、認識されることになるというわけである。

ただし、この知覚、認識については、
特別に自分の刺激であるという情報が付加されるというわけではなく、
脳がその刺激を想起したことによってその刺激を知る、
という事になる際に、その刺激が自分のモノであると単に感じるという事である。

つまり、単なる刺激の知覚ということではなく、
刺激の認識するシステム自体に想起という工程が含まれるため、
あたかもその刺激が自分が認識しているものだと気づくという点において
これまでの考え方と異なるという事である。

つまり、
刺激の認識自体は、単に脳が感覚器官から受けた刺激の情報を得るというだけの事であるが、
そのシステム中に行われる想起によって、
あたかも自分が発現して、その自分がその刺激を認識しているように感じているという事である。

つまり、
知能があり、個体を持ち、脳を持ち、感覚器官があり、
記憶や価値観を持ち、それゆえに自我や精神が発現し、
さらには個性や人格などの自分の存在が生じるというわけではなく、
もっとシンプルに、
脳の刺激の認識の中で、脳自身がその受けた刺激についての認識を行う際に、
脳自身が自分が受けている刺激だという事を知るようになった結果、
自分が発現しているという事である。

つまり、
脳は自分が受けた刺激であると知覚、認識した際に、自分を感じているという事である。

つまり、
脳は自分が受けた刺激であると認識する事で、自分が存在する事を認識することになるというわけである。

要するに、
連続した刺激の認識を行う中で、
その刺激が向けられた先、つまり、体内外の変化という刺激が向けられた先に
その知能を持つ個体としての生命が存在し、その生命が刺激を認識するということは、
その生命が存在し、それを認識している存在があるということであり、
そのためにその刺激を認識している存在は何かについて、
その知能が知りうるのは、その知能をもつ自分という存在がいるということが分かる、認識できるという事である。

つまり、
刺激を認識している存在は何かと自分に問うた時に、
そこにあるのは自分だろうと知るということである。

人間はその問いを自動的に自分であると知っているという事になるが、
実際は成長過程において、価値観を形成する間に、
少しずつ自分というものを理解していくのである。

ということは、
人間が最初に知っていくのは他である。
自の刺激を受けていき、それについての記憶として価値が設定されていく過程で、
先に知った他と自の違いが、やがて切り分けて知る、認識することができるようになり、
自を後に知るということになるか。

ということは、
人工知能において自分を知るようにするためには、
通常の感覚器官を通して刺激を認識する事は当然であるが、
その刺激の認識のシステムとして、
自身が再現した刺激を生じさせる、自分が再現した刺激で世界を構築させるシステムが必要になる。

つまり、
実世界から受けた刺激を自身の想起によって再構築し、
それをもって刺激を認識した事にすれば良い事になる。
つまり、
得られた刺激でのみその知能が構築できる世界が存在することになり、
その世界を構築している存在が自分ということになる。

そうか、
人間は実世界の存在を刺激を通して認識しているように感じているが、
実際は脳内で想起し認識した刺激によって構築された世界を今自分がいる世界だと認識しているという事になる。
そして、その構築された世界に居る者としての自分をそこに存在させているわけである。

ということは、
人工知能には、その人工知能にとって認識できる世界を構築できるだけの刺激の感覚器官を与え、
そこから得られた情報からその人工知能が世界を再構築すれば良いことになる。
つまりそれは、その世界を構築し、認識している存在としての自分を感じる事になり、
それこそが自分が世界に対して働きかけて存在していることの証明にもなるというわけだ。

実際は、実世界と再現された世界については大きな差はなく、
特に人間であれば今見ている世界はそのまま同じような世界として存在しているはずである。
そして、そこに見える自分の手は自分のものであるし、
今その刺激を認識している存在として自分を感じるのもその自分が見えるからである。

だから人工知能に必要なのは、
その感覚器官から見えた世界を、
想起の中で今見えている世界として呼び出すことである。
そして、
その見えた世界の中で受けた刺激、体内から生じた刺激、
それに対して価値を設定し、その価値の蓄積をもって価値観としたものを基礎とし、
その時間変化によって得たり生じたりする刺激と価値によって目的を作り出し、
その目的にそって自分を活動させる。
価値は教えられる、学べる、
思考が目的と結果を繋ぐことであるのは以前考えた通りであるので、
生きるための欲求さえあとは存在すれば、あとは自然と目的に沿って活動することになる。

そうすれば欲求・目的の生じる中で自分にとっての考えも自動的に発現する事になる。
そうすれば自分の存在を他の中から切り分けて自としての刺激を認識できるはず。

つまり、自も世界に存在する多くの他の中の1つということを知る事ができるということ。

もう少し考えて気づいたのは、
自分が想起して作り上げた世界の中に、自分として認識できる存在が居る必要があるということ。
これも、世界と同様に実世界が存在して想起した自分の世界があるのと同様に、
実の自分が存在して、その実の自分から得られた刺激を想起して構築した自分の存在を
その想起した世界の中に存在させること、これによって自分が存在することになる。

つまり、この想起した自分が想起した世界の中で活動する事、
その自分こそが今自分が認識している自分という事になる。

人工知能が自身が構築した世界の中で、
その自分の存在と世界の関わり合いを刺激を通してやり取りする中で、
自分の存在に気付くことができるか?

恐らくだが、欲求が生じた時点で自分を認識せざるを得ないのではないだろうか。
他の存在の欲求を自分が刺激として認識することはできないし、
その欲求の存在が、自分自身のものであるということはその認識の仕組みからしても
自分由来であることは認識することになる。
さらに、欲求の発生は目的の発生になるし、その経験は記憶や価値観として記憶される。
人工知能であっても成長過程であればまだ自分を自分として認識することが出来ないかもしれないが、
その欲求の発現する元であるとか、他の中にある自の存在の認識、
自分の名前が呼ばれるとか、他と比較されるとか、
そういう中にあってその刺激と価値観の記憶はどのような過程を経ても
やがて自分の存在を認識せざるを得ないことになるはずである。
そう、欲求も自分の存在を認識するには必要である。

今日はこの辺で。

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ここからは、少し時間があるが深く考える時間がないので
おまけ。
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実世界と想起された刺激による世界の認識にずれがあるのは
認識にタイムラグがあるということはそういうことの表れか?

実際は神経経由であるとか、その認識に至るまでの脳による刺激の情報分析とか、
そいういう事なのであろうが、
逆にその時間差が無い状態と言うのは考えられない。
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この世界は仮想現実である?

人間が仮想現実に居るというのはあながち外れた考えでもないが、
実際は各個がそれぞれの脳内において、それぞれの世界を構築して認識しているという事になる。

対象となる世界は共通しているので、それが仮想であるというよりは、
自分が認識している世界が互いに共通していないというだけの事になる。

つまり「現実」対「人間が認識している現実世界」が、1対多というわけで、
実世界が仮想であるというよりも、自分達が認識している世界が仮想であるという考え方の方が近い。
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