2022/10/28
自分を認識する
これまでで自我や精神の存在が
特別な確固たる定義で表せるものではなく、
生命としての個体が何らかの知能活動の行う様子を表した状態の事だと考えたが、
この場合であっても
自ら感じる事の出来る自我や精神の存在について、
どのように自分で認識しているのか、
そして何を認識して自我や精神だと感じているのかについて考えてみる。
自らの欲求に従って価値を、刺激を目的として求めるのは
生きざるを得ない制限でも考えた生命の活動の本質になるのだが、
これが、人間並みの知能と、刺激の感覚器官は持つが原始的な生物においての違いについて
考えると、その差は脳や知能の違いということになる。
感覚の種類や神経など、それぞれ数や複雑さは異なるが、その点については
1つ1つの大きな違いはない。
刺激を受けて神経を通り、刺激に対して反応する。基本の活動はこれだけである。
違うのは知能、知性の存在によってそこに自我や精神の存在を確認できるということになる。
認識においては、
自身の刺激である事を認識することが自我や精神の発現に関係していると考えたが、
詰まる所、この自身で自身の刺激であることを認識する事、
その際に、その刺激が自分のモノであり、また同時に自分の存在を自身で認識する事が関係しているとも考えた。
そして、最終的には自身で認識する自分の存在や、
他人の他我としての他人が刺激と欲求、目的に沿った知能活動を行っている様子を見て
そこに自我や精神の存在を感じているということも考えた。
今、ふと、自分で自分についての認識を行わなかった場合について思い、
そういえばその状態は以前書いたことのある悟りにおいて、
その認識を全てあるがまま認識する事だということを思い出して、
再現しようとすると、そこに自分の存在も他人の他我の存在も、精神の感覚も全て感じていないように感じた。
ということはまず、自分で自分の自我や精神を認識する事は、
認識する対象となる刺激が自分の所属であると認識していることが必要になる。
つまり、まず、「自分という認識」が必用になるということである。
「自分という認識」は、その認識の対象となる刺激が、
自分の感覚器官で知覚される事、つまり、脳内での刺激の想起によって刺激が刺激として形になる事、
そして、その感覚器官が自身が持つ感覚器官であると知る事、または知っている事、
これによってようやく自分の体の存在を知覚、認識できることになる。
つまり、刺激を得ている体を持っていないと、まず、
他と自の境界を設定できず、自分の存在を認識できない事になる。
これは以前にも同じことを考えて書いているが、
自と他の差でもって自分という存在を差という刺激で認識できるようになるという事である。
つまり、境界が存在しない場合は、自分の存在が発散してしまい、
自分を形作ることが出来ないという事になるわけである。
一般的には生命体の人間であれば表皮の皮膚の内と外、
心理的にはパーソナルスペースとか、そのような境界をもって
その自分という存在の境界に充てている。
つまり、この自分と他という境界の内側にあって、
その個体が認識している刺激が自分の所属となる刺激となり、
自分に関する刺激となり、自分が認識する刺激となる。
そして、その際に生じた他との境界、その内側が自分であり、
それを刺激の認識の際に同時に自分を感じる事になるというわけである。
とすると、自分自身の認識さえ、刺激の認識の結果的な副産物ということになるのだろうか。
まあ実際は他と自を差を持って比べられるようになるために、
記憶としてというか、想起の中で刺激を認識する事が最低限必要にはなりそうである。
つまり、単に刺激を認識するという事だけではなく、
脳を、つまり、過去の刺激としての記憶としての記憶装置を持ち、
その刺激の認識の為に、結果としては価値の比較を行うために、
その刺激を知覚する際に、想起を用いる事によって、
自身が今受けた刺激でありながら、自身の個体としての認識も行われることで
自身が知覚する刺激を自身のものとして、そして、自身それ自体を認識することになるということで
自分の事を自分で認識できるという事になるというわけである。
要するに脳に刺激が伝わった際に、
それによって励起される刺激が認識に繋がっているのだが、
その際に刺激を認識する存在として、
その刺激の感覚器官を持っているという存在が自分の体であり、
その自分の体を刺激とともに感じる事によって自分の存在を自分で認識しているという事になる。
つまりは、この事がどのようにして自分を認識しているのかという答えになるだろうか。
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そして何を認識して自我や精神、自分だと感じているのかについて。
まあもうこれは半分以上、上に書いてある事が答えになるのだろうが、
自分という所属の存在である。
生命の個体部分であれば自分の体、
目に見える手や腕、足、鏡に見える自分の顔、
触って分かる頭や胴体、
刺激の中にあって他ではない部分の存在、その認識できる部分である。
脳内に存在する記憶としては、
自身が持つ価値観、つまりは過去の刺激の記憶の蓄積、とその評価した価値の意味、情報。
記憶の中にあっては、自身が認識した自分がその対象となる刺激に対して評価した価値の意味、情報。
それらが自我や精神、自分自身の全てである。
まあそう考えると体積的にはそれほど大きくはないものである。
容量としても有限で足りる。
つまり、生命体としての個体が認識した
過去の刺激の記憶として、その刺激と、その意味、情報としての価値を設定した、
その記憶の積み重ねが価値観であり、
それこそが自我や精神の基になっているのではないか。
つまり、鏡が光を反射するように、
刺激を受けた価値観がどのような反応をするのか、
つまり、その刺激に対して反射する価値観の様態が自分なのではないか。
その反応自体を認識することも含めてという意味になるが。
そして、
他から見た自の在り様と、
自から見た自の在り様はその見た存在が持つ知能の価値観において
その認識は異なる。
自分ではいいと思っても、他から見てはだめだと言うこともあるが、
どちらも自我や精神の認識には適(かな)っている。
つまり、ある刺激に対して、自分自身の価値観でもってその刺激の評価を行う事。
そしてその評価によってどのような対応をするのか、それを決められる事、
そしてその決められた内容を自分のものとして認識出来る事。
これが自我や精神というものになるのではないだろうか。
そして遡って最も理解に苦しんでいた自分のものとして認識する事については、
自分の存在を自分で認識する事、
つまり、
自分の存在を自分の中に作り出すということである。
自分はこういう者である、
自分であればこう考える、
自分はこう感じる。
そのような自分をあたかも存在するものとして作り出す事である。
刺激の認識の境界によって他と隔て、
その感覚器官で得る刺激を自分の所属する意味、情報として捉え、
その刺激に対する反応を価値観として蓄積しつつ、その価値を評価し、認識し、
それを行う存在を「自分」として思う事、考える事、認識する事。
それこそが「自分」というものなのだろう。
他の中にあって敢えて違う自分という存在を認識して
自分としている、という考え方も浮かんだ。
要するに他の中に自分を見て、それを真似ているというものである。
つまり、自分という器を他人の中に見つけて真似し、その中に入るのが自分の価値観であるために、
それを込めて自分とするという考えである。
これはまた次回として
そろそろ疲れてきたので
今日はこの辺で。
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