2022/10/18

自我や精神の認識についてと感情について

ここ最近まとめて考えてきた自分の存在、
自我や精神の発現や認識について
今思いつくことをまとめて考えてみる。

自我や精神の確認方法から発展して考えてみる。
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自我や精神が感じられる活動を認識することそれ自体が自我や精神の存在となる。
それは、自分自身が自分自身の自我や精神を認識する際にも適用される。

無意識と同様、自我や精神の存在というのは実際に何か決まった形になった存在があるわけではなく、
ある一定の状態を観察した場合にある特定の状態として見えるものである。

主に知生体が自発的に行動、活動、思考などをした場合に
そのような状態として観察できる。

知生体の自発的な行動は、全て価値の獲得、刺激の獲得の為に行われる。
知能が刺激しか扱うことが出来ないため、他の要因は無いと考えられる。

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感情は人間が作り出した表現方法である。という考察・仮定。

元々の知能に感情という本能は備わっていない。
人間が知能の表現のある状態を集約して喜怒哀楽などの感情としてまとめた。

共同の社会を構成するために
各個人の状態を互いに理解しやすくするために感情が作られた。

基本的な快不快という状態については本能ではあると言えるが、
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2022/10/21

続き
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感情については幾分か人間が互いの理解をしやすくするために
集約してきた表現ではないかと考えた。

もちろん、生まれたばかりの赤ん坊であっても、
泣いたり、かんしゃくを起こしたり、ほどなくして笑ったり、
言葉で教える事がなくとも表現する表情や状態というのはある。
しかし、それというのは生物として自身の状態を表現しているだけのことで、
それが何かという事までは自身では考えていないと思われる。

見ている側が感情であると認識する事と、
表現する当人が表現している状態については少し隔たりがあるように思われる。

成長して後、その表現が感情として洗練されていくというのは考えられるが、
感情というその理解が行われる前の状態においては、
感情という理解なしに表現している単なる状態であるのではないかというわけである。

ではなぜ感情を作り出したのか?

シンプルに考えれば互いに共通する状態を理解しやすくするためである。

そしてそれは、自分自身で自分自身を理解するのにも役に立つ。

激情などにかられた状態では気づかない事もあるが、
通常、自分の今の状態が感情的にどのような状態であるのかは自分自身では分かっている。
通常はほとんどの時間を平静な状態で過ごし、
状態に起伏が生じた時に感情を感じる事になる。

そしてこの状態を刺激や価値という観点から考えてみると、
基本的に感情に起伏が生じた時は、その刺激を認識することになる。
生じる原因としては自身に対する価値観に対する刺激の評価の結果である。
つまり、何らかの刺激が自身の価値観において評価された場合に、
その結果としての価値が自身に対して感情の起伏を生じる原因となったという事である。

感情自体は、自身が得た刺激に対する価値の評価の結果、
その刺激が自身に対して認識された時に、その反応として感情が生じる事になるというわけである。

例えば、ある刺激を受けた際にその刺激が非常に価値の低い刺激であった場合、
それに対して起こす反応としては感情の種類で言えば、反発である。
反発の内容は、周囲への発散か、自己内への収束である。
まあこれは周囲へなら怒りとかとなる不満の爆発であり、
自己内であれば、忍耐や諦めといった我慢に関するような表現となる。

逆に心地よい刺激であれば、生体として喜ぶべき刺激、価値であるので、
それに対応した状態の、感情の表現となるはずである。

基本的に感情の表現は、周囲への表現をするために用いるものであるが、
基本的な部分、つまり、快不快に対するような基本的な対応というのは、
自分自身だけで感じる、認識するだけのものである。
また、周囲に他我が存在しない場合、つまり自身の状態を自身で認識するだけのような場合も、
自分自身だけで認識することになり、周囲への表現が行われない事もある。

これが他人、他我が存在する場合においては、
自身の状態、感情を表すことには目的となる価値が生じる事になる。

共感や同情、反発や忌避、互いの関係や距離、その状態によって
表現される感情や内容が変化することになる。

感情を表現するということは、それによって他人との関係において
変化、反応があり、それによって期待される目的、価値、刺激が存在するという事になる。

つまり、意味もなく自身の状態を表現するということはなく、
何らかの意図をもって表現が行われているという事である。

つまり、感情の表現にはその期待される刺激、価値、目的があるということになる。

つまり、意味もなく、目的もなく表現は行われないという事である。

とすると、本能的に自身の状態を感情として表現するというわけではなく、
何らかの思考、知能の働きによって感情が表現されているという事になる。

周囲への働きかけという点では、相手に何かを話すという行動も同じような事である。
自身の状態、考えを言葉使って表現し、相手に自身の状態を伝える事である。

自身が持つ状態、刺激や価値の状態の事であるが、それを言葉を使って表現し、
相手に伝えるのである。
なにも目的もなく話しかけるという事がないように、
この会話というものにも必ず目的とする価値や刺激が存在しているはずである。

何の気なく話しかけたとしても、それはその状態に対する変更を意図しているはずで、
沈黙に耐えられないとか、今よりも状態を良くしようとか、
何らかの考えがあって話しかけるのである。

自分ではそれを認識したり、意識したりすることが無いのは、
他の強い刺激が同時に存在するか、わざわざ意識して脳の労力を使わずとも
効率的に行える経験、習慣をすでに持っているかという事になる。

そうすると、人間が行う行動や表現は全てと言っていいだろうと考えられるくらい、
全て目的があるという事になる。
当人が意識的に認識していないとしてもである。

まあ生物としてはあらゆる情報の入手と、対象に対する行為や行動には
結果的に認識されるべき刺激が生じることになる。
刺激しか対象についての情報を得る手段がないからということでもあるが、
ということは、知能は刺激と価値で表せるという事になる。

逆に考えると、知能を作り出すためには刺激を受ける感覚器官と、
それを刺激として認識するための脳、刺激を記憶し価値観として蓄積するための記憶、
そして自身の状態を表現するための個体が必要になるという事になる。

おそらくどれが欠けても知能には至らないだろう。

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あらゆる行動には目的と期待される刺激、価値が存在する。
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つまり、自発的に対象に触ってその感触などで刺激を受ける、
認識する行動も、
相手がいて相手に話しかけてその反応を見よう、受けようとする行動も、
同じようなものである。同じように対象の情報を刺激として得ようとしている行動であるというわけである。

原始的な生物が、その触腕などで対象に触れてその状態を認識しようとする行動も、
人間が、そのこじれた関係をどうにかしようとしている関係の相手に対して
考えた末に話しかけるというのもその大本のきっかけは似たような事であるというわけである。

時間が来たので
今日はこの辺で。


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