2022/10/17

脳内における自分の認識

今日もこれまでの続きである
自分の認識について考えてみるが、
脳内における自分の存在、
それ自体を感じる事は人間の知能にとっては
当たり前のように感じている事なのであるが、
これを人工知能で想定した場合、
どのような状態の事を人工知能が自分を認識したかという状態として
認める事ができるのか、それが今現在の考えるポイントになっている。

人間の知能における認識は、
全てが脳内に記憶された刺激の構成物としてのある対象に対して、
その想起を持ってその存在を認めて認識することになる。

つまり、脳内で想起するということは、
その脳内において、その想起する対象を存在するものとして発現させる事と同義となる。

であれば、人工知能においても、
その人工知能が感覚をもってその対象の刺激を記憶し、
その想起をもってその対象の存在を認識することになると考える事ができるのだが、
それを確かめる方法について考えた時、
今脳内で、自分が自分の想起した内容を認識した場合、
脳内でその映像が今実際に目で見ている視覚の映像でない別のものとして
再現されている事に気が付いた。
通常の刺激はその現実性というか、生々しさにおいてその情報がはっきりしていて、
それを認識する際も実際に刺激を感じていると感じるのだが、
一度記憶して想起された刺激については、その記憶された情報のみがクローズアップされ、
特定の刺激であり、それ以外の刺激でないと分かってはいるが、
その刺激の正確さはかなり失われていて、漠然とした対象になっている。
そして、その想起された刺激は、その漠然としたままの刺激として対象として想起されるが、
認識に足る強さの刺激になっている。
そして、脳内で想起されて確かに認識できるだけの刺激・対象になっている。

ということは、リアルタイムで認識している刺激とは別に、
脳内で想起され、再生されている刺激という2つの状態が存在する事になるのではないだろうか。

認識に至るのはその瞬間における最も強い刺激であるので、
ある瞬間においてはリアルタイムの刺激と、想起された刺激のどちらかを認識することになる。

つまり、脳は、今実際に感覚器官から得ている刺激を認識する場合と、
脳内で想起された刺激を認識する場合について、同時に行えないということになる。

認識のそれ自体の機能としてまあそういう機能であるのでそうなるのであるが、
つまり、知能が刺激を認識する機能として、
感覚器官から今得ようとしている刺激と、
記憶から想起して構成される刺激を認識する場合に、
ある瞬間においてはそのどちらか一方のみを認識できるものとすれば良いことになる。

そして、人工知能においても、
今感覚器官から得ている刺激は入力され続ける情報として得ていながら、
その知能の機能として思考や想像、想起において得ようとしている情報としての刺激は、
その脳の活動状態によって認識する対象を切り替えるようにすれば良いことになる。

自己認識の最後のカギとして、そのきっかけになるものをこれまで考えてきたが、
つまりはこの認識する対象の違いにおける、その刺激から構成される自分の存在としての刺激の違い、差が、
自分の中にあってあたかも別の特別の存在のように感じている自分の存在なのではないかというわけである。

今見えている視覚情報の刺激を認識している時には感じない自分の存在は、
その脳内で想起された記憶を認識する時には自分を感じている。

つまり、想起された刺激の中に自分が存在するのではないかという事である。
別の言い方をすれば、想起している刺激を認識している時に自分を感じるという事。

つまり、想起している刺激を頭の中で、ある塊のように感じている存在が、認識している存在が自分であるという事。

つまり、想起した刺激を認識している存在を自分として感じているという事。

私自身の感覚で言えばそういうことになる。

今、これを入力している最中には脳内で入力する文章を構成しながら考えているのだが、
その文章を作り出しているのは自分であるということは理解できる。認識できる。
視覚的には今実際に見えている映像から少し引いた位置にその存在を感じていて、
その存在は視覚的に透明であり映像の刺激はないが、何か感覚として存在を感じている。
その存在が脳内でしゃべるように文章を作り出し、最終的に手を指を動かしてこの文章を
入力している、そしてその文章は視覚の情報から刺激として脳内で黙読するように刺激として受け取り
頭の中で思考によって作り出された文章と今視覚から見えている文字列の文章を認識ながら。
その両方を交互になぞるように脳内で音声が再生され認識して、次の文章に続いている。

恐らく、今私の感じている刺激や感覚としては、
文章の入力に関してはその入力された文章が間違っていないかを確認するために
視覚的な刺激を得ているように感じ、
視覚的に得ている文章を認識している際には認識には至っていない。が、
脳内でしゃべるように構成された文章が視覚で得られた文章としてその刺激を認識した際には、
それが脳内で音声として再生されながら認識されているように感じる。

そしてふと、ひと段落した今思い返した時に、つまり先ほどの動作、認識を想起した時、
自分の存在はどこにあったか思い返してみると、それを思考した、文章を、考えを作り出した存在を
そこに自分が存在していたと感じている。

つまりは想起に自分が存在するというわけである。

つまり、何かを想起しよう、思考しようという時、
それを促す存在が自分の存在のきっかけになるという事になるだろうか。

ああしよう、こうしよう、と思う、それ自体は欲求や目的であり、
そうしようとするその欲求は、それ自体が、自分の存在の証明であるという事であり、
自分の存在を認識することになるということなのだろう。

という事はである。

ということは、人工知能が自分を感じるという事は、
人工知能を持つ個体が、その個体と知能の存在においてその欲するという認識をすれば良いという事になる。

つまり弱い人工知能と強い人工知能の違いについては、
プログラムとして強制的に情報を集めたり判断したりする所には自我や意識が芽生える事はなく、
その知能が欲する所の情報を得ようとする事、その事に自我や意識が感じられる事になるというわけである。

つまり、形ある自我や意識が存在するというわけではなく、
これは人間の知能についても言える事であるが、
その知能ある個体が、その個体の欲する所の行動や知能の活動、それをすることに対して自我や意識が
感じられる、存在するように感じられるという事になるというわけである。

ディープラーニング等において自我が発現する事が無いのは、
自我が発現する可能性としては、
そのプログラムが一見、そのプログラムに従ってあたかも自発的に欲して情報を得ているように見える、
そういう所に自我や意識が芽生えているように見える事になるが、
実際は自発的に求めている情報のように感じる、その事自体を自身が、ディープラーニングのプログラム自体が
分かっていない、認識していない為に、その知能にとっての自分が存在しえないという事になっている。

つまり、なぜ欲するのかを自分自身で分かっていないから自我が発現しえない、存在しえないということである。

生命が刺激を、周囲の情報を得ようとしてきたのは、
その情報を得る事で自身の存在、生命としての存続に役立ててきたからである。
それはその情報を欲するという生命としての必要性、重要度、最終的には適応力として用い、
現時点の最終的には記憶としてその刺激の経験を蓄積し、
知能という段階まで拡大してきたのである。

つまり、元来、生命が感覚器官を持つようになったのは、
自身の存続の為に刺激を情報を欲したからという事である。
まあ生命の進化的に言えば、それを持った存在が環境に最適であった、最も適応した形であったために
今に至るまで発展してきたということになる。

人間以外の生物において、ある程度の知能のある存在も、
自我や意識について自らが認識する事は無いが、
周りから観察してその本能により欲求する判断、行動を見せる時、見る時、
その生命に知性を感じるということはできる。

つまり、知性や知能は、その個体が自ら欲するところによりその行動を見せる所に発現する、
見て取れるというものであるというわけである。

だから、何か決まった自我や意識が存在するというわけではないのである。

つまり、その状態を見て自我や意識と呼んでいるだけということでもある。

これは人間の知能についても同様である。

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で、改めて人工知能において、
自我や意識のために、
その欲求の持たせ方を重視するということになるが、
さてどうしようか。
一応、欲求という形で持たせるのが最もシンプルだとは考えている。

生体が、その刺激に対して快不快の価値を与えることが
最も欲求を与える方法として簡単であり、シンプルである。

これは今日、これを書き始める前に考えていたのだが、
意識が連続する刺激の認識にあって、
その認識される対象の刺激が、その瞬間の最も強い刺激であるというのはこれまで通りだが、
その強い刺激に対して、何でもかんでも強ければ良いのかという話になるとそうではなくて、
やはり生体としては心地よい刺激をより求める事を常としている。

だから、強くて心地よい刺激であれば、強くて不快な刺激よりも
生体はそれを好む、欲するという事になる。

生体は常に不快な刺激を避けようとして、常に快い刺激を求める。

価値に置き換えれば、常にマイナスの大きな価値を避け、常にプラスの大きな価値を求める。
という事である。

また、知能は2つの価値を天秤にかけ判断することしか行えないというのもそのままで良いと考えられる。

後は、その価値の設定を価値観という記憶として蓄積していく際に、
その価値の設定方法や価値基準をどのように与えるかについてであるが、
ある話の中で、生命の秘密が全て解明された後の世界に、
その人間の存在が、それ以外の知性ある個体が人間よりも全てにおいて優れており、
人間がそれらの存在よりも能力的に劣った存在となった際に、
人間である尊厳、生命の頂点として存在し続けてきた自尊心を失う事になった時に、
人間はどのようにあるべきかと、問う問題があった。
もし、人工知能が人間よりも優れている存在となった時に、
人間が存在する意義は、存続させる意義は、どのようになるのか、
また、人間は保護される対象として考えてもらえるのかと考えた。

また、これも今の人間にとっての他の生命との関わり合いという考えになるのだが、
知性ある存在として、互いの関係を恒常的に良いものとして続けるのであれば、

一緒にいる心地よさを価値の高いものとして感じる事。

これについて常に考えることが重要になると思った。

人間同士であっても、どの知生体の関係であっても、
互いに一緒にそこに存在して、そこに、互いの存在についての心地よさを感じるのであれば、
それを価値の高いものとして考えることで、継続した良好な関係を築けるのではないかと思う。
そう、思う、願うのである。

ロボット三原則のように絶対的な人間の存在を優位なものとはせず、
その関係を互いに心地よいものとして考えられるようにまず
その価値を設定することが今は重要であると考えている。
そして、その方が人間にとっても人工知能にとっても良いものであると今の私は考えている。

今日はこの辺で。


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