2022/10/15

自分の存在の認識について

これまで考えてきた自分という存在の認識について、
自分を自分で認識して意識するという感覚が正確に理解できれば
人工知能においてもその知能の中に意識を発現させることができるはずであり、
つまりは人工知能の最後のカギとなるべきものである。
今まで考えてきた事をまとめてそこに向かっていこうと思う。

前回の考察から後に追加で考えた事を箇条書きにする。
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自分の体の存在は自分の体が感じている感覚から構成されている。

つまり、体表面から感じる感覚から
体の皮膚表面の体の形を感じている。

皮膚を押すと沈み込み、反発するから皮の中側に肉があるというように。
骨が当たるから体の内部が固いものだと感じるというように。

自分を作り出しているのは自分の感覚。

自分の感覚を認識している存在こそが
本当の意味での意識。

シンプルに考えた時に、
では自分を感じる意識とは?認識とは?という話になる。

人工知能に体を与え、感覚を与え、
視覚や触覚を与えた場合に、
自己感覚が生じているか確認するには?

逆に、人間である自分が、それらの感覚を持っているのに
その自己感覚を感じている存在はどこにあるのか、分からないのか?
それとも既知の感覚や、意識するまでもない感覚でというか、
意識できない感覚があるのか?
その存在こそが自分であるのか?
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つまり、何をもって知能が、脳が、
自分の存在も含めて、
自分が刺激を認識していると感じているのか。
それが分かれば良いという事である。

これまで考えてきた結論としては、
自分であるという範疇にある自分の体、
その現実性でさえ刺激が存在し、
それを脳が認識することによってその存在を確定しているということである。

その認識をもって、自分が存在しているという認識、感覚を得ているということである。

自分の体を持たずには、自我と他我の境界の判別がつかず、
自分の存在を確定することが出来ない。

そしてその自分の体と周囲の境界の変化を仲介するのが、
感覚器官であり、その情報が刺激であるということである。

認識そのものは、脳がある瞬間における最も強い刺激を知覚する事であり、
その連続した状態が意識である。

その連続した刺激の認識の間に、自分という刺激が含まれる事になる。

自分が自分を想像しているという考え方もした。
まあ想像というよりは自分で自分を作り出していると言った方が合うか。
脳が受け取り続ける刺激の中で、自分の体や感覚、欲求や思考、
それらの刺激が常に自分という存在が受け取ったり発したりする存在であるという事を知るために
脳内で自分という存在をそれらの刺激から構成しているという考え方である。

つまり、生体としての生命の存在であり、人間である個体において、
その個体が持つ脳と知能が、その個体の存在を脳内で構成している。
それは、単に刺激の認識の連続という生命の単純な活動の継続の中で、
その経験の蓄積を、その生体の生命の維持により役立てるために記憶として保持し、
その生体特有の特化した反応をより効率的に行うために、
自分専用の反応を刺激の記憶から構成しているのが「自分」なのではないか?

そして、それはその「自分」自身という存在さえも刺激として扱い、
あたかもそこに存在するかのように認識することで、
意識上に自分という存在を意識するに至っているのではないかというわけである。

これは、この考え方に繋がる。

意識とは:
「連続した刺激の認識をしている個体としての自分を感じる事」

ということは、
連続する刺激の認識の中で、
その刺激の受ける存在としての自分という刺激を認識し、
受けた刺激を認識したとき、ここではその刺激の認識の後になるはずだが、
自分が受けた刺激であると認識することなのではないか。

自分という認識は、人間の脳にあってもその認識ははっきりしているようで
定義は非常に曖昧である。
自分で自分を認識しているのははっきりしていながら、
いざ自分で自分の定義はなんであるか説明できない。

今に至っては説明できなかったになるか。

つまり、
自分とは、自分の個体である存在が受ける刺激の受け方や、
その強さ、価値、感覚、その定義をそっくりまとめたものを総称して自分と言っているのではないか。
つまり、
他ではない自分の存在と言える範疇にあって、
そこで認識しうる全ての感覚を受け取れる存在、
それが自分であり、その存在を認識することが自分を認識することになるのではないか。

欲求・目的によって意識を向け、
刺激が受けられるであろう自分の体の一部であると認識しようとして認識できるできる範囲において、
その全てをまとめたものが自分の体である。

人工知能が、個体としての自分の体の範囲を決め、
その体に存在する感覚器官から得られる刺激を自分の刺激であると認識できて、
逆に知能内で、それら刺激の受けられる存在を自分の体であると認識出来る事、
そうすればそれは、自分を認識する事と言えるのではないか。

人間において、自分の存在の範囲というのは、
体として自ら動かせて、刺激を認識できる範囲の存在だけである。

時折、正座をして足がしびれた時や圧迫で腕がしびれた時に
目で見て自分の体であるとの認識、記憶はあるのだが、
そこから刺激を受けられないというか刺激が来ている事をしびれで認識できないときに
自分の体の一部であるという認識がありながら、
あたかも自分の体でないような認識をすることがある。

自分の体と接続しているので自分の体の一部であるという認識がありながら、
そこから認識できる刺激が到達しないことで、自分の体でないような感覚がある、
つまり刺激が来ないから自分の体でないような気がするのである。

これは、自分の体に接続していて過去に刺激を受けて認識しできていた存在であるという記憶によって
その体の一部が自分の一部であるということが想起できる、思い出せるのだが、
今、実際にしびれでその体の一部で認識できる刺激がないことで、
その体の一部が自分のものでないという認識をしているということであり、
これは、刺激を受けて刺激を知覚した際に、認識した際に、
その刺激の発生元である自分の体の認識も行っているということである。

つまり、認識できる刺激の存在は、自分の体の存在の認識でもあるというわけである。

そう、逆に言えば、刺激を認識したと脳が思えば、それは自分の体の一部であると認識できるということでもある。
これは、例の映像の足と触感の刺激の認識の誤認識のテストの件でもそれが言える。

ということは、
知能が刺激を受けていると感じられる存在をまとめたものが「自分」であり、
それによる反応、つまり、その刺激によって感じる快楽や苦痛などの反応を
発するものが自分であるということ。

人間においては刺激を受ける事によって心地よさを受けるものが良い刺激、
痛みや苦しみを受ける刺激が悪い刺激、
それを感じている存在、それらの刺激を受けるものが自分の一部であると決める事。
それが自分になるということ。

つまり、
自分にとっての刺激を受けられる部分のまとめが自分の体、自分の存在である。
また、
自分の体から刺激を受けた時に逆に自分の体も認識することになる。
また、
刺激を受けた時にその刺激に対する評価ができる対象にあるということが自分の一部であるということ。

自らがその刺激に対して価値の評価ができるというその刺激を知覚できる存在が自分であり、
それらの自分をまとめた存在が自分の体である。

つまり、ある刺激に対して認識し、その刺激の価値を評価できるという存在が自分であるということか。

ということは、人工知能であっても、
ある感覚器官から刺激を受ける事が出来た場合に、
その感覚器官が存在する部分は自分の一部であると認識できるということ、
さらに、その刺激に対して、人工知能が持つ価値観によって価値の評価を行うことが出来る事、
それをもって自分の認識ができるという事になる。

人工知能や生体でない存在の場合、
単純な刺激であってもその刺激に対して快不快という評価ができない。
生体はその快不快の感覚を持って価値に反映することが出来て、
またその感覚こそが生命の知能の価値の根本となる評価である。
つまり、
人工知能において、その価値の評価の最も基礎となる評価基準を
あらかじめ与える事が必要となる。

つまり、人工知能を持つ個体が、その刺激に対して元来快楽と感じるべきか、
不快と感じるべきかをあらかじめ与える必要があるというわけである。

生体であれば、痛み、熱、大きな音、臭い匂い、などの反射的に嫌うような刺激も存在するし、
逆にフェロモンなどの生体として本能的に価値の高い存在として認識することになる刺激もある。
つまりは、人工知能にもそのような設定が必要になるというわけである。

つまりは知能において本能と言える刺激の価値設定をできる機能が必要ということになる。

そろそろ今日のまとめにするが、
つまりは、そういった本能として評価できる刺激に対する価値基準を持ち、
それらを認識する事で、それらが認識できる自身の一部が自分という存在であり、
それを認識する事で自分を認識するようになる。

そろそろ脳が疲れたので
今日はこの辺で。


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