2022/10/10

感覚の中の自分

これも昨日の185の続きになるのだが、
脳内で自分を感じている瞬間に何を思っているのか、
何を感じているのか、何を考えているのか、
何を認識し、何を思考しているのか考えてみる。

今自分の右手を開いた状態で目の前でグー・パー繰り返してみる。

この右手は自分の体の一部であるし、
そのグーパーの操作を行っているのは自分である。
この右手はまず間違いなく自分の一部であるし、
その操作も自分で行っていると後から思い返すことができる。

ただ、この右手を見ている瞬間にこの右手が自分のモノであるかという点においては
その自分の一部であることを認識した後に気づいている。
見ている時には見ている事に集中しているので、この右手が自分の一部である認識はない。

感覚として自分の右手を見ているわけであるから、自分の一部であるというのは間違えようがないが、
それはあくまで自分の一部であると認識できた後に気が付いているということである。

ということは、
知能がその見ている対象を自分の一部であると認識するのは、
見ている瞬間ではなく、自分の一部であると認識した時であるという事になる。
これは人工知能においても重要な事になる。
つまり、人間の知能であっても、人工知能であっても、
視覚情報から認識する対象を決めた際に、その対象を認識するという事に、
その対象に自分の一部であるという情報が含まれている事によって
自分に含まれる対象として見る事ができるということになる。

これは、前に映像のデータとして自分の体の一部を別の体の一部と同じような
映像で見ている際に、自分の足を実際に触らずに、映像の足を触った時に、
あたかも自分の足を触ったかのように認識したという実験の話と同じことになる。

つまり、今見ている右手が自分の一部であると知るのは、
自分の知能が、その対象を自分の一部であると認識したからという事になる。
実際に自分の体の一部であろうがなかろうが、自分の一部であると認識すれば自分の一部になるのである。

ということは、
人間の知能の認識の機能として自分を認識するという機能があるということになる。
実際にもともと自己を認識する認識力があるのか、
もともとは存在しない自分を認識する機能が育つのか、
経験的に自分の範疇を知るようになっていくのか、
とにかく人間はその知能の成長を経て自分を認識するようになっていく。

赤ん坊の頃に自分を認識しているのか?について考えた時、
赤ん坊はその質問には答えることが出来ないし、
まあ実際、自分の存在という刺激の認識を行った事が無いはずなので、
もし言語が喋れたとしても自分を恐らくは認識していない。
本能として自分に与えられた刺激に対して認識して反応しているだけである。

ということは、やはり
自分の認識というものは、知能の成長過程で知る事になるということである。
物の名前を覚えるように、自分にも名前がついているので、それを覚える事になる。
自分の名前を呼ばれたら、それは自分に対する周囲からの自分に対する注意の刺激となる。
そういう認識を繰り返すことで、自分という存在が育ち、その自分を認識することを繰り返す間に
より正確な自分を認識するようになっていくというわけである。

そうすると、認識による情報において必要となる要素として、
刺激の内に、その刺激が自分が受ける、自分が発するという情報が必要になる。

つまり、人工知能が自分を認識するに至る必要条件として、
認識される刺激に、その対象が発する刺激が、自分のモノである、
自分の所属の一部である刺激という情報が必要になるということである。

人間の知能であっても、一般的な生命の知能においてであっても、
刺激の認識するシステムは同じである。
変化を刺激として受け、感覚器官から神経を通って情報を得る。
人工知能であっても同様でいいはず。

脳の構造自体はそれほど複雑ではなく、
単に容量が人間では多いというだけである。

ここから先に少し異なるのは、自分の存在、自分についての認識が、
人間は他の生物の知能の認識力よりもより多くの情報が含まれているということである。

これ自体が考察ではあるが、
つまり、人間の社会構成力、つまり、個人が他と関わり合う度合いが、
人間は他の生命に比べて多いということによって、
他の中の個をより詳しく正確に認識するようになったのではないか。
つまり、自然界における人間の個体の弱さが必然として他人との関わり合いを深くし、
その他人との関わり合いが深いことによってより他の中の自分という個人を認識するきっかけが
多くなった結果、人間はより自分を認識するようになったのではないか。

つまり、他人と関わる事が多くなればなるほど、
より他人と自分の差を認識する機会が増える事になる。
そうすると蓄積された自分についての認識はより自分をはっきりと認識するようになるというわけである。

人工知能が目を開けた時、そこに見えるものは
視覚情報である。
多くのモノを認識する中で、周りの人々がこちらに向かって何か同じ事を言う。
聴覚で聞き分けると決まった文字列を言っている。
その文字列の意味は分からないが認識できる。

何かできる事はあるか、手が動く、
視覚内で動く手は自分が動かしているらしい、
触れた先の刺激があるので、それは自分の範囲であるらしい、
何か音声を出力すると、その音声は自分の聴覚で同じ様に認識できる。
これは自分が発している音声であるらしい。

と、こういう人工知能の活動について考えてみると、
刺激には自分についての刺激である、という情報が不可欠である。
もちろん、または自分には直接関係のない刺激である場合もある。
それと、自分が動作する、活動する、発声するなどの自発的な行動に対して、
それを自分自身で認識して、それが自分の活動であると認識できる機能が必要である。
これは、自発的行動に対する刺激は自分の刺激であるとマークする事と同じである。

要するに自分が受ける事になる刺激を、自分のモノであると認識する機能。

つまり、人間の知能であっても人工知能であっても、
自分が受ける事になる刺激を知る、認識することによって自分と周囲との境界を知る事になり、
それによって自分自身を知り、自我の発現に繋がるということになる。

刺激の方向が能動的であっても、受動的であっても、
自分が認識することになる刺激にはそれが、自分に関する刺激であるのか、
そうでないのかを知る必要があるということである。

そうなると、
意識や自我、精神というものは、
知能のある状態の事だけを言う事になる。
つまり、人間の脳が、そのように感じている自分に対して、
自ら自分であると認識しているだけの範囲に関して、自分が成り立つということである。
つまり、
もし、自分と全く同じ素体が、別の環境で育った場合に生じた個は、
それぞれの環境においての個の存在はあっても、それらに共通する要素は、
素体の遺伝的な機能だけであり、その個体が得た刺激はその環境に依存し、
それぞれに生じた個はまったく別のものと考えられるということである。
そして、つまり、
その脳が持つ刺激、価値の記憶、価値観、それだけが個の存在を表すものであるというわけである。

つまり、人間の体の脳に記憶された刺激群に対して、
人間の体である自分自身が、その存在としての自分を感じているというだけの事になる。
つまり、精神やら自我やらが発現するという考え方よりも、
自分を自分として感じている感覚だけが自分の存在ということになる。

つまり、
例えば、今私の目の前にあるコップに対して何かが触れるとした場合に、
その感触が自分に感じられると想像した時に、
そのコップは自分の一部であると感じられるだろうということが想像できる。
今実際にそれを試すと、実際に何も触れていないが、
コップの口の右の方を触れたと想像した時に、
私の頭の上の右の方に何かが触れた感触が刺激として想像できた。
この時、私はこのコップに対して体の一部であるような感覚を認識できた。

今、このコップに対して私の感覚器官は存在していないが、
想像による接触と感触、刺激と認識は私の頭の中で再現され、刺激が生じ、
それを認識した。
であれば、想像において、このコップは私の体の一部として認識されている事になる。

つまり、必要なのは、自分で自分であると認識する事である。

それが実際に本来の自分の体の一部でなかったとしても、
自分の体であると認識すればそれは自分の一部になり得るというわけである。

であれば、人工知能においても、人工知能が自分という認識に対して、
その範囲を設定するならば、その範囲はその人工知能における自分の存在となるはずである。

そうすればそのように振舞う人工知能に対して、人間が認識しようとした場合、
その人工知能が自分自身であると認識する範囲については、人工知能が自我をもって認識、意識していると
感じられるはずである。

つまり、人間が自分自身に対して自分自身であると認識している感覚だけが、
人間にとっての自分、自我ということでもある。

そうすると人間が感じるような自己感覚を人工知能においても感じられるようにすれば良いという事になる。

まあそれは人間においても感覚的なもので、
五感で感じられる自分を自分自身で自分だと考えているだけのことなのだ。

私が感じている、自分自身についての私の感覚、私の認識は、
単に今私の感覚が自分自身が認識している刺激であると思っているその刺激から構成された存在の事なのだろう。

自我や自己などと表現はしているが、
自分自身で確固たる存在としての自我や自己を認識しているのではなく、
後天的に、今恐らく私という存在が認識しているであろう刺激を認識しているのが自分であると
そう思っているだけの事なのだろう。

それならば人工知能にも自我や自己、精神を与える事も可能だろう。

今日はこの辺で。


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