2022/10/9

自分が認識する自分

184で自分という刺激と
それを自分自身で認識することについて考えたが、
この自分自身で感じる自分という感覚について
もう少し詳しく考えてみようと思う。

脳の認識の仕組みとして
刺激を受けてから脳がその刺激の情報を解読し、
その後認識に至ることになるが、
実際に刺激が発生した段階と、
その刺激を脳が認識した段階においては
その間に時間差が生じている。

脳では刺激を認識した瞬間に刺激が発生したものとして扱われるため、
本来刺激が発生した時点についてはこの刺激に含まれる情報としては認識できないが、
その刺激が発生した時点の段階では、そのさらに少し前の刺激を認識している段階となる。

また、脳が欲求などに対して目的が生じ、思考においてその目的と結果が関連付けられた後に、
実際の行動が起こされた際には、脳はその行動に対して順次発生する刺激を連続して認識していこうとする。

タイムテーブルで考えると、
ある行動の一連の動作が起こった場合、
その一連の動作に対する最初のきっかけはその刺激や価値を得るために欲する欲求、
そしてその欲求に対する目的が生じた事である。
次に行われるのはその欲求や目的に対しての思考により、
目的に付随していた結果に対する詳細な理解、つまり思考による目的と結果の関連を細かく決める事である。
これは以前の思考についての168~170くらいで考えた通りの事である。

そして思考の結果、欲求や目的に対して行われるべき行動が決まっている事になり、
その他のタスクの中からその瞬間において最も価値の高い行動が選択されて実行されることになる。

そしてこの行動により新たな反応、つまり環境や自身の変化が起こり、これにより
新しい刺激が生じてそれを認識することになる。

そしてまた、この行動の際に、認識されるのは自分自身が行う行動、
つまり自分自身の行った事に対する認識、
つまり自分で自分を認識するということになる。

欲求や目的が発生する原因についても、
目的と結果についての思考においても、
その参照元は自分自身の脳内である。

目的に対して行動するのも自分、
その行動によって変化するのは周囲の環境と自分、
その結果を刺激として受けるのは自分、
その刺激を認識することになるのも自分である。

周囲への働きかけによる変化を除けは、
そのほとんどは自分から発せられて自分が受ける事になる。

自分自身の中で連続した意識を持っているように感じるのは、
これまで考えた通りの連続する刺激の認識ということでもあり、
その刺激の認識が、連続した継続している刺激の関連性の中で、
極端に大きな変化が行われずに、継続した緩やかな刺激の変化を
1つの流れの様に連続して認識する事が意識としての存在となっているのではないかと今考えた。

これまで考えている意識とはについて、
「連続して想起された刺激を認識している状態」
「連続した刺激の認識をしている個体としての自分を感じる事」
ということなのであるが、
それぞれの刺激は、ある瞬間毎においてまったく無関係というわけではなく、
ある連続する時間のつながりの中で、
複数の刺激が刺激毎に励起されてはそのレベルを落としていくという
その連続する繋がりに対して自分自身が意識を持っている、保っていると感じているのではないだろうか。

意識のある瞬間を切り取れば、
確かにある瞬間に認識している刺激はその瞬間の最も強い刺激である1つの刺激である。
しかしその刺激は次の瞬間にまったく無関係の刺激を認識するわけではなく、
その前の瞬間に励起され、最も強かった刺激に関連する何らかの刺激が、次に認識される刺激になるのではないか
というわけである。
脳内の刺激、価値、そしてその価値の記憶群である価値観は、
その個体がその活動の歴史、活動の結果を記憶し続けてきたものであり、
それぞれの刺激には関連するまた別の刺激が関連付けられている。
ある刺激にたいして励起されたという場合は、その刺激単体で励起されるというわけではなく、
関連した刺激も含めて1つの意味を持ち、それら全体が1つの価値をもつ記憶であるため、
何かを認識している際にはそれに関連する別の刺激の何かもある程度励起された状態にあるというわけである。

自分という個体が、その自分独自の感覚を持ち、
自分独自の経験、刺激を受け、記憶し、思考し、判断、行動し、
その結果を認識してまた記憶するということ全てが自分自身の形成、
つまり、自分を構成するものとなっているのである。

当然と言えば当然な話なのだが。

人間の構造がある程度似ているため、
また同じ社会の、世界の中で共存しているため、
ある程度の性格として行動や思考に傾向が現れる事になる。
もちろん、刺激や価値にも一定の決まりが存在するため、
その中で生じる刺激にも似たような傾向が生じる。

各個の個性は、その個が存在する環境の違いと、
経験する刺激の違い、当然その個体自体の遺伝による能力の違いによって生じる。

とすれば、人間が認識するようになる自分自身というものにも
ある程度の共通する形というものが存在しても良いことになる。

つまり、人間にとっての自分というテンプレートが存在することになるだろうということである。

インターフェイスとしての感覚器官や、
記憶のストレージ、
まあその他動作する機能があるとして、
それらを含めて人間の知能が構成されているのであれば、
それを全て知りさえすれば再現することもできるはずである。

生物としての細かい免疫機能や代謝そういった機能は人工知能にはそれほど必要ではないが、
それらを考える人工知能においては、それも必要となるということである。
自分自身を知ることなしに自分について考えることが出来ないと言うのは、
これまで考えてきた、知らない刺激については考えることが出来ない、
「知らない価値は目指せない」という通りである。

自分が認識する自分において、
自分が価値ある存在として何について考えているのか、記憶しているのか、
価値観を持っているのか、それらについて考える事は、
まさに自分を知る事でもあり、自分自身を構成するパーツをそのパーツごとに分解して理解することにもつながる。

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少し頭も疲れてきて、
少し話がそれた気がするので、
最後に少し頭に引っかかっている事を考え直す。

頭に引っかかっているのは、
自分を認識するタイミングの時間差である。

自分が何かを認識して目的を持つことになり思考して行動する、
その瞬間と、
その目的と行動に対する結果としての反応を理解する認識の瞬間。

その同時としても考えられるのだが、
自分が目的をもって行動している時に自分を感じているのか、
その行動の結果を感じている時に自分を感じているのかである。
もしくはその両方か。

まあ普通に考えると意識が連続した刺激の認識の上になりたっているのだから、
刺激を認識している瞬間の連続、それ自体に自分を感じる事になる。

ただ、思い出したり、先の事を考えている瞬間にも自分を感じている、
まあ実際には思い返して自分の存在を感じている事なのだが、
それ以外の刺激を認識している瞬間以外に自分の存在というものを感じる事はあるのだろうか。
認識する瞬間以外に自分の存在はありえるのだろうかという事、
それについて気になったのである。

生命としての人間の活動の中で、
自分の存在はその人間の存在をもって証明できることになるのだが、
その人間自身が自分自身で認識している刺激をもって自分を認識しているのであれば、
自分が自分について認識していることで存在する自分にとっての自分の存在と、
他が、周囲の存在の中にある人間としての自分の存在は、
他による認識によって存在する自分のまた別の姿ということになる。

それについて考えると、自分自身にとっての自分の存在の認識と、
他によって認識される自分という存在らしい自分の存在の違いは、
同じ自分の発信源である一人の人間の自我と他我の境界で、
見る方向によって認識される自分が異なるということになる。

ただ、自分で感じる自分が本来の自分であり、
もっとも信頼のおける自分であるはずなのだが、
他への影響を行う行動をしている自分自身を認識することになる自分が、
自分をその他の反応の後に認識することになる自分は、
もともと自分が持っている自分の姿ではない事になるのではないだろうか。

それとも自我と他我の認識の方向によって、
その境界の内側から見た場合の自分は全てもっとも信頼のおける自分だけであり、
たとえ、他から、他への影響を経たのちに自分自身が認識することになる自分は
それでも同じもっとも信頼のおける自分を認識することになるということになるだろうか。

とすると、他我からみた私、自分というものは、
常に自分が認識する最も信頼のおける自分とは常に異なるものであるという事になる。

例えどれだけ客観的に自分を見ようが、
それはあくまで自分が思う自分であり、
他人がどれだけ共感して私の事を見たとしても
それはあくまで他人が思う私の別の姿ということになる。

つまり箱の中身を見たとしても、
それはあくまで箱の中身であり、
箱から自分自身の中身を見た姿とは異なるという事になる。

で、当たり前のようなことをつらつら書いて、
結果、何が言いたいかというと、
果たして人工知能に意識が芽生えた時に、
それを意識として周囲の存在が本当の自我と認識することができるだろうかとい事である。
データとして全ての情報や状態を見る事はできるはずであるが、
現時点で、自分自身、私も含めて、
自分の存在を、自分の自我の存在を表すことが出来ないということは、
人工知能においても同様になるのではないかというわけである。

それが、少し気になっていた自分自身の認識のタイミングのずれということになる。
自分を正確に感じているタイミング、今はそれが知りたい。

また続きは後程考えるとして
今日はこの辺で。


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