2022/10/4

自分という刺激と認識

182で考察した自分の存在について
知能における自我や精神と言われる存在についての発現について、
自分で行う自分自身の価値観の表現がそのまま
周囲の他や、自分自身についての認識という事になるが、
この際に自分で認識することになる、自分自身の事について
もう少し詳しく考えてみる。

182では、
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「自分が受けた刺激に対する認識、刺激に対する価値設定を周囲に、他に、もしくは自身に表現する事。」

「その他、もしくは自身に表現する事を、自分自身で認識する事にもなるために、
それが自分の自分に対する刺激となり、それを認識することで自分を感じられるようになる」

「自分の表現した事自体の刺激を自分で認識する事で、
その認識した刺激を自分の価値観で価値として評価し、
自分で自分を思う、考えるということが出来る」
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という事であると分かったが、
この時に表現している自分というのは、
周囲からの刺激を入力し、認識した際に価値観により設定される価値であり、
その価値の認識によって自分がどのような反応をするのかが決まった結果である。

つまり、
1:刺激を受ける→
2:その刺激に対して価値観から価値を設定する→
3:刺激・価値を認識する=その瞬間において最も強い刺激・価値を認識する→
4:その瞬間における最も強い価値による目的と結果を意識する→
5:その目的と結果を解決する思考を行う→
6:思考による行動を起こす→
7:周囲と自分に反応が起こる→
8:反応による差を刺激として入力する
→以降繰り返し

ということになる。

詳しく考えてみると
1:刺激を受ける
→これはどのような初期状態においても考えられる状態であり、
生命として誕生して感覚器官を得てから死ぬまでずっとここから始まる基準の状態である。

2:その刺激に対して価値観から価値を設定する
→知能の初期状態においては価値観は本能に準じる反応として価値が設定される、
知能の発達段階に応じて、既存社会の価値観を得る前の段階において、
発達心理などで考えられる本能的な価値観は、
口唇期・肛門期・男根期・潜在期・青年期・性器期のようなそれぞれの成長段階に応じて
生命としての本能としての価値の反応としての価値観から価値が設定されることになる。
社会の中の個人として社会や環境と関わるようになり、
その中で生体としての本能的な価値でない社会的価値や共有する価値観などを体験し
認識、記憶した後は、この価値を価値観として刺激に対する価値として設定することも行われるようになる。

3:刺激・価値を認識する=その瞬間において最も強い刺激・価値を認識する
→これは認識の考え方の通りで、刺激や価値の種類には関係しない。
認識するタイミングにおいて、その瞬間で最も強い刺激・価値が自動的に認識されることになる。

4:その瞬間における最も強い価値による目的と結果を意識する
5:その目的と結果を解決する思考を行う
6:思考による行動を起こす
→これは思考の所で考えた通りで、生体としての生きざるを得ない制限としての目的として、
つまり、生きていくために必要とする様々な目的は知能ある生命体として、
その成長の全ての段階において様々な目的が生じる事になる。
本能の欲求であったり、社会的な価値の欲求であったり、それらが全て個体としての目的となり、
生きている間中、常にこの目的を次々に達成するために思考して行動することになる。

7:周囲と自分に反応が起こる
8:反応による差を刺激として入力する
→自身が行動を起こせば、または時間経過によって周囲に変化が起これば、
必ず自分が受ける事になる刺激が生じる事になる。
これは自分自身にとっての状態・環境の変化であり、
それは刺激となり次に認識されるべき対象・変化となる。

→以降繰り返し

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この繰り返しの中で自分にとっての自我や精神の発現が起こる、
というか、起こっていくと考えられる。
急に自分の自我を認識するようになるというわけではなく、
気が付くと自分であった、そう、物心ついたということになるわけである。

その辺りが自分自身で分かるようになるのは、
3~4における刺激に対する価値の設定と、
4~5によって生じる目的を
自分で自分自身の価値や目的として知る事ができるようになる頃である。

つまり、ある刺激に対して自分自身がこのような価値を設定するのは、
自分だからであるという事を知り、
自分が必要とする価値・刺激を得るための自分の目的を自分で知るようになると、
自分で自分についての認識ができ始めるということである。

自分自身を認識するのには、やはり自分自身についての刺激が存在するようである。
これは、特定の自分の存在の刺激というわけではなく、
182で考えた通り、自分の起こす反応や行動がそのまま自分自身への刺激として
自分に認識されることであると考えられる。

刺激は周囲の環境から受けるものと自分自身の体内から生じるもの、または脳内で想起される刺激として
受ける事になる。
この刺激の中から自分についての刺激を切り分けることになるが、
ここで重要になるのが、他と自の境界ということになると考えられる。

本能的な欲求として自分が目的をもって行動を起こした場合、
それによって認識されることになる自分自身の存在は自分の欲求とその行動である。
成長の初期段階においては、周囲への影響や反応は自分自身で考える事はない。
ほぼ一方的に周囲へ自分自身を表現するのみである。
この場合においては、周囲である他と自の境界はほとんど意識されることはなく、
自己主張のみで自分自身で自分を認識することはできない。
つまり他と自の間に差が生じないため、認識するだけの刺激になり得ないというわけである。

これが変化してくるのは自分の行動、行為や周囲、他への影響を認識できるようになる頃、
つまり、それまで自己主張のみで表現してきた自分について、
その主張した自分の表現に対する反応を認識するようになり記憶し、価値観としての
刺激・価値の記憶を持ち始めてからということになる。
つまり、自分の表現によって周囲・他が、どのような反応をするのかについての
過去の経験を持ち、その経験は価値観としての思考における目的と結果の予想される要素として
用いることが出来るようになって、それによって自分についての表現に変化を付けられるようになった頃、
というわけである。

今ふと思ったのは
幼いころの人見知りにしても、
自分の慣れ親しんだ環境における人や物、場所の存在に対する自分の存在が予想できる安心できる状態にあって、
そこに現れた見知らぬ他の存在に対して、自分と関わる事に対する経験の無さからくる不安、
自分の表現に対する他の予想できない反応の不安などからその他への接近を拒むという行為になる。
これは自分という存在を他との関係の差を認識している状態であり、
自分を自分で認識し始めている兆候として見ることが出来る。

実際は、生育の環境の違いや個体差もあり、常に多くの他と関わっているような状態では
自分を認識し始めていても知らない他との関わりも経験として知っているため、人見知りなども起こりにくく、
元々、物応じない性分という事もある。

いずれにしても、自分の認識というものはその知能の成長にしたがって、より正確に、詳細に
行われるようになっていくものであると考えらえる。

そうすると、ある程度
自分を認識するためには、あらかじめ自分の表現に対する相手の反応を見て、
それについて自分なりの価値を設定できるようになっておかないとならないだろう。
これは、本能としてでよいと考えられる。
つまり、感触や音、温度について、心地よいと感じるような刺激の価値を認識できるようになっているべきである
というわけである。
例えば、赤ん坊の間に心地よいと感じる環境は、その環境の中における自分との差が生じる基準となる。
自分が心地よいと感じるなら、それは自分の生態としての感覚が、その環境において
他と自の境界を持ち、その他と自の状態の差をもって、心地よいと感じているという事になるからである。

そして、その心地よいという状態を維持しようと、というか赤ん坊の間であれば、維持してもらうために
泣いたりぐずったりして自分を表現し、他への環境変化を促していることになるわけである。

そうすると、経験のない変化、刺激に対しては不安に感じるという事も本能として必要になるだろう。
まあ、その後の知能、思考という点においても、知らないという不安であるから想像・予想して、
予行演習をしておこうという事になるわけである。

そうすると、人工知能の初期段階としてある程度の刺激に対しては本能としての価値観をあらかじめ
設定しておく必要がありそうである。

基本的には快・不快の感覚が全ての刺激の基である。

人間であれば遺伝によってある程度の個体差の能力に制限があり、
また環境によってもその後の成長に個体差が生じる事になる。
この間の経験にも差が生じ、結果として個体差が生じることになる。
個体差はある同じ刺激に対しても異なる価値が設定され、認識されることになるので、
ますます個体差を生じる事になる。

しかし、人間である場合の初期の快不快の感覚は、
遺伝による差異以外においては違いはそれほど多くない。

人工知能が自分を認識する際には、その周囲の影響が大きいという事である。
実際、周囲の全ての中における自分という、他と違う自の境界を設けるわけであるから、
周囲の他から切り出すことになる自分、自というのは周囲の環境の影響が大きいというわけである。

その辺りの事についてはまた後程考えるとしよう。
今日はこの辺で。


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