2022/10/2

自分を認識するということ

180・181で知能の存在から発展して、
自我の発現、自分の存在、
自分の認識、自分の認識のきっかけについて考えてきたが、
今回もその続きで考える事にする。

昨日考察を書き終えた後に考えた事で、
新しい事は、
:自分の認識は刺激の認識の時間差の間に存在するのではないかという事。
:自分はそもそも存在していないのではないかという事。
:自分という認識ができるということは自分という刺激があるのではないかという事。
:認識することそれ自体が自分の認識の全てなのではないかという事。
:刺激を価値に変換する事が自分の存在になるのではないかという事。
:自分は主観的には存在せず、客観的思考においてのみ存在するのではないかという事。
:自分は客観的モノの見方ができる知能において発現するのではないかという事。
:思考する事は自然界では何かの対応としては反応の速度が遅いため、その猶予の中で自分が誕生したのではないかという事。
:そしてそれぞれの考え方で人工知能で自我が実現できそうなのモデルが作れるかどうか。
このような事を考えた。

自分が存在しているという事。
つまり、単なる生命の1個体としての存在だけではなく、
知能を持ち、思考する生命体としての自分が存在しているという事。
それを自分自身が知っているという事。

つまり、それを人工知能で再現できることが、
逆に人間の知能、自我、精神、を理解できたという事になる。

自分で自分の存在を知っているのは当たり前で、
ことさら考える事もないくらいに分かっている事である。
でも、どのようにして自分で自分を知っているのかというと、途端に分からない。

恐らく赤ん坊の頃に自分の事は自分では分かっていないはず。
それを知るのはしゃべり始めた後、
自分の欲求を話すようになってからだったと思う。

そうすると自分というのは成長する存在で、
周囲に自分の存在を話す、表現することによって発現するということになるのか。

以前、話す必要がなければ、人間の知能に話す能力は不要となると考えた事があったが、
自分の存在を持つ必要がなければ、自分を作り出さなくとも良いという事になる。

つまり、現在の人間はその生活する環境において、
自分を表現する事を必要としているということになる。
そのために自分の事を表現する事、つまり、自分を持つことに繋がっているのではないか。
とすると、人工知能において、
自分の状態、状況を表現する事自体が、自分を持つということになるのではないか。

人間が、その五感によって刺激を受け、
その刺激、それぞれにその対応ととれる反応をし、
その反応は、同じ刺激であっても個体によって様々である。
それらは個体差によって差を生じ、
その反応自体をその個体が知る、認識することによってより自分が、自我の認識、
記憶が強化される。
そしてますます、自分は自分を強く認識するようになっていく。

ということか。

ということは、自我や精神というのは、
「自分が受けた刺激に対する認識、刺激に対する価値設定を周囲に、他に表現する事。」
それこそが自我や精神という事である。
という事になる。

そして、それ、
「その他に表現する事を、自分自身で認識する事にもなるために、
それが自分の自分に対する刺激となり、それを認識することで自分を感じられるようになる」
ということか。

また、
「自分の表現した事自体の刺激を自分で認識する事で、
その認識した刺激を自分の価値観で価値として評価し、
自分で自分を思う、考えるということが出来ている」
という事か。

そうすると、その考え方の大本になるものは、
「個体の欲求」であり、
「欲求に対する表現」が自分という事になるか。

ん。
表現は他に対しても、自分に対しても行う場合があるか。
そうすると、
まとめると、

「自分が受けた刺激に対する認識、刺激に対する価値設定を周囲に、他に、もしくは自身に表現する事。」

「その他、もしくは自身に表現する事を、自分自身で認識する事にもなるために、
それが自分の自分に対する刺激となり、それを認識することで自分を感じられるようになる」

「自分の表現した事自体の刺激を自分で認識する事で、
その認識した刺激を自分の価値観で価値として評価し、
自分で自分を思う、考えるということが出来る」

ということになるか。

とすれば、
人工知能においては、

「自分が受けた刺激に対する認識、刺激に対する価値設定を周囲に、他に、もしくは自身に表現する事。」

これは刺激に対する価値観を設定できるようになれば、
その刺激に対する価値の評価を出力できるようになればいい。
そして、その事自体を自分自身で入力できるようにすればいい。
要するに自分で行った事自体を自分でも知る必要があるということ。
これはフィードバック、自身の経験としての記憶として後の同様の行動に
価値観や経験の記憶として用い、後の判断や行動の修正の基になる。

「その他、もしくは自身に表現する事を、自分自身で認識する事にもなるために、
それが自分の自分に対する刺激となり、それを認識することで自分を感じられるようになる」

これは、無限再帰に気を付けて、自分で自分の表現した刺激の価値を設定出来れば、
つまりこれが客観的な自己評価、客観的な自分の存在の認識、評価ということになる。
その意味でも、やはり自分の行った思考や動作を自分自身で認識することが重要となる。

「自分の表現した事自体の刺激を自分で認識する事で、
その認識した刺激を自分の価値観で価値として評価し、
自分で自分を思う、考えるということが出来る」

これは、2番目と同様で、
自分について自分自身で考える、思考する対象にすることができるということ。
例えば、現状の自分の状態に対して評価した価値を自らに表現し、
その刺激を認識し、価値で評価することによって現状の自分を認識し、
それを欲求に対する目的と結果に対応させ、自分自身の欲求に対する目標にすることが出来る。
つまり、自らの欲求で自らの評価と改善を行うことが出来るという事になる。

ああ、
自分の考えを自分で認識する事、
それは、自分の頭の中で考えた内容を文章とか話す事で刺激として認識しているということか。
頭の中で話している内容を今ここに書いているのは、
それ自体が、自分自身で自分自身の思考した内容を刺激として認識して、価値に評価して表しているのか。
だから、語っている内容はそのフィードバックとしてその次の文章に繋がるわけか。

そうすると、やはり自我や精神というのは育っていくものだと考えられるな。

そうすると、あと考える必要のある事は価値観とか、
刺激に対する反応や記憶する内容か。

寝ている間に自我や精神が感じられないのは表現していないからということになるな。
自問自答も自己の表現ということになるな。

夢は夢の中で自分を表現する事もあるから、
夢の中では自我や精神が現れていると考えられるな。

表情や動作、行動にも自我や精神は現れていると考えられるな。

嘘をつくことはどうだ?
自我における本心でない、偽った仮想の表現ということになるか。
それによって自分が認識する刺激はなんだ?
偽ったという認識と、その偽った表現によって本心で表現した結果より価値の高い反応が得られると
思考した結果か。それを認識することになるか。
嘘をついて悔やむのは、嘘をついた後に認識された刺激が思考して想定した刺激より
価値が低かったためか。周囲の反応が価値が低かったか、自身の本心を偽った行為そのものの負の価値か、その両方か。

客観的とは?
つまりは、この自分で表現した内容を自分自身で価値判断する事、そのものという事になる。

そうすると人工知能を育てる際の価値観の構築に気を付けないとならない事になるな。
悪意を持って価値観を構築すればどのようにでも人類の敵にでさえ作ることができるな。
まあそれは人間であっても同じ事か。

一度きりをつけて
今日はこの辺で。


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