2022/9/27

新しい学習モデルから知能へ

人工知能の学習モデルとして有名なのは
最近ではディープラーニングがあるが、
他にもいくつもの学習モデルが存在する。
でもそれらが使われているのは全てが
特化型という弱い人工知能であり、
汎用型の強い人工知能に用いる事はできない。
そこで強い人工知能に使えるような
新しい学習モデルが考えられないか試してみる。

基本的には人間の知能が汎用型なので
その再現ができれば最も身近で分かりやすいはず。

ん?
学習は知能を生み出す・構成させるために行う様に考えられているが、
実際にはそれとは異なる思考や価値観の要素の増加という点において用いられているはず。
知能の本質的な機能が価値判断のみであるから、知能の構成の為に学習するというのは
少し的外れな考え方ということになる。

ボトムアップで考えるなら、
その大本にあるのは知能の価値判断という機能だけがまず必要となる、
その上でその価値判断の材料として記憶する価値の数を増やすことが必要になる。
ということだけであり、
一方でトップダウンで考えるなら、
知能の役割が思考することであるとして、
思考は目的と結果の中継を行う事ということあるので、
その目的と結果の間を埋める方策や手段としての記憶、
その種類を増やすことを基本にして考える。
そして、それを上下から一緒にして考えれば良い。

つまり、
思考するという知能において、
目的と結果の中継を作り出すために、
知能が所有する価値の記憶群、つまり価値観の中から、
価値判断をしながら、その目的と結果の中継を設定する事、
それをモデル化すれば良いということになる。

事象や対象1つ1つの価値を設定することが重要であり、
その事象や対象に対して知能を持つ個体の自分、自我が
その事象や対象に対してどのような関わり合いを持つことが出来るのか、
関わり合いを持っているのかを記憶する事、
その記憶する事それぞれに価値という基準の定量的な値を設定する事、
それを積み重ねれば思考に到達するのではないかと考えられる。

問題となるのは、この関わり合いの機会が作れるかという事になる。
現在の人工知能は知能が関わり合いを持つ対象や事象について
入力しかその情報のやり取りが無い。
つまり、知能を持つ個体として事象や対象に対してアプローチが出来ないということである。
これはつまり、その関わり合いとしてのアプローチに対してフィードバックが得られない事でもあり、
それでは知能の価値の修正・記憶の修正が自ら行えないということである。
これはつまり、人間の知能で言う所の学習ができないということである。

汎用的な知能、強い人工知能であるためには、
自らが学習できる必要がある。
しかし、自らが学習することが出来るためには、
自らの知能を持つ個体として、その学習対象について自らアプローチできる必要がある。
つまり、そもそも与えられる情報、データだけから学習することはできないのである。
その辺りが現在のディープラーニング他の人工知能の学習モデルに違和感を感じていた点ということだ。

2022/9/30

続き

学習は知能の思考を詳細化、高度化するために行う事であり、
知能自体を生み出すために行うものではない。

つまり、学習モデルが出来たからといって
そのシステムに知能が発現するわけではないという事。

つまり、学習モデルを考えるというよりも、
知能の発現モデルを考えた方が良いという事になる。

学習モデルは詰まる所、知能の発現後の新たな思考のスタイル、パターン等を
増加させることに他ならないから、それは要するに
知能が思考する際に用いる要素を増やすだけに用いるものである。

ということは、汎用型の人工知能に使える学習モデルを考えるより、
汎用型の人工知能の知能発現のモデルを考えた方が良いという事になる。

知能発現モデルをそのまま稼働したままでいれば、
最初の知能発現後も、多様な、つまり、複数の客観的な多角的なモノの見方、
思考の仕方ができるようになるはずである。

まあそれこそが人間の知能の汎用的と言われる思考するスタイルということである。

で、改めて知能発現モデルについて考えてみる。

まずは知能本体を考える前に必要な要素について考えてみる。

知能を収める器としての個体がまず必要となる。
電脳においてその個体を持たずに自分が存在できるかを考えた事もあるが、
VRにしろアバターにしろ、何らかの個体を自身の個体として識別し、
自身の自我を認識できる必要がある。
これは、意識が

------------------------------------------------------
意識とは:
「連続した刺激の認識をしている個体としての自分を感じる事」
------------------------------------------------------

が必要であるためと考えられるためである。

そして、この意識を再現するために刺激の入力装置を必要とする。

これは刺激を知覚して、その刺激の情報を得る事が必要という事でもあるが、
この刺激の情報を認識、

認識については

------------------------------------------------------
認識とは:
受動的な刺激の知覚に対して
想起と同様に思い出したかのように刺激を知る事。
------------------------------------------------------

であり、入力された刺激の情報を知能が記憶し、
それを再現することによって刺激として認識することができるというわけである。

この際の認識された刺激は、そのある瞬間において、最も強い刺激、
最も価値の高い刺激であることはこれまで通りである。

で、この刺激の認識を行う事が出来るシステムこそが必要であり、
今回最も重要だと思われるモデルのことである。

つまり、この刺激の認識できるモデルができさえすれば、
その後の意識の発現にも至ると考えられるのである。

で、刺激の認識するモデルについてであるが、
刺激の入力装置があったとして、
そこから知能に刺激の情報が送られてくるのは、人間でも
人工知能でも同じである。

その後、人間は入力した刺激を一度脳内で受けて刺激として神経を通し、
その際のある瞬間において最も強い刺激を認識することになるのだが、
この認識は、その人間の脳内で想起と同じ仕組みで再現されること、
それが刺激の認識になる。つまり、脳内で受けた刺激の情報から、
その刺激であると再現して見直す、再確認する、そういう事が行われている。
それこそが認識なのだが、
人間の脳内で行われている認識は、その刺激の入力において行われる刺激が
神経細胞を経由した際に励起された状態は、そのまま記憶された刺激の再現と同様の事が
行われており、その刺激が、どのような刺激であるのか、入力と同時に再現しているのと同じ事になる。

つまり、刺激の認識は、
入力と同時に想起されているのと同じ事であるという事になる。
逆に考えると、刺激を想起するということは、刺激の入力と同じ事という事でもある。

刺激の記憶するシステムとして、刺激の情報は、
ある瞬間において複数の刺激が同時に脳内に到達している状態であり、
その際に記憶できる刺激の情報はある程度限られたものとなる。
ある瞬間に入力した刺激の情報を全て記憶することはできない。
それは、脳神経の限界という事でもある。
これは、私が今まで考えていたある瞬間において認識する刺激の対象が
常に最も強い刺激であると考えていた事に少々修正、変更を加え、

「ある瞬間において認識される刺激は最も強い刺激に関連した一定量の刺激ということ」

に変更する必要がありそうである。
というのも、ある記憶を思い出そうとした時に、副次的というか、
同時に思い出される別の刺激があるということが考えられるからである。

例えば、ある香りを嗅覚で知覚、認識した時に、別の記憶が想起されることがあるという事。
よくある例え話で、お線香の匂いで祖父・祖母の家を思い出すとか、
ある匂いに対してある人を思い出したり、ある場所、ある出来事を思い出したりすることがあるというわけである。

で、話を戻して刺激の認識になるが、
人間はその知能において刺激を認識する際に
そのある瞬間における最も強い刺激に関連した一定量の刺激を一度に励起し、
その関連した一群の刺激を、
それを記憶として記憶、想起、認識することになる。

想起の際に一定量以上の刺激がこぼれる、つまり、一定量以外の刺激は想起できなくなるというのは、
そういう事になる。

記憶の記憶、想起、まではそれほど難しい事ではない。
人工知能においては、その刺激をコンピュータでいう所のCPUならレジスタに読み込むだけの事である。
で、ここから人間が異なるのは、その刺激の想起において、
刺激の認識でもそうだが、それを見ているというか知るための存在があるということである。

つまり、これが精神とか自我とか、意識ということになる。

改めて意識について考えると、
意識は

------------------------------------------------------
意識とは:
「連続した刺激の認識をしている個体としての自分を感じる事」
------------------------------------------------------

であり、人間にあって、人工知能にないのが、
この認識をしている個体としての自分を感じる事である。

つまり、人間は、その刺激を認識している存在が自分であることを知っているから意識があると言える
ということであり、
人工知能に意識がないと考えられるのは、その入力された刺激の情報を認識する存在としての
自身を認識する方策が今の所存在していないということである。

ただ、人間において、その自身を認識するという認識は、
あらかじめ備わった能力であるのか、後天的に獲得する能力であるのかという事になると、
それはあらかじめ備わった能力であると考えられる。

それこそが生命の知能の知能たるゆえんということでもある。

人間が幼い時期であっても、知能が感じられるのは、
ある刺激に対してその個体それぞれの反応を示すことが見られるからである。

ん?とすると、
知能の根源はある刺激に対する個体それぞれの決まった反応。
つまり、価値観の存在になるか。

ある刺激がその個体に伝わった場合、
その刺激の情報はその個体が持つ知能の価値観を経由することになる。
価値観はある刺激に対してその刺激の持つ情報を価値に置き換えて設定する事であり、
これは、知能が唯一行える価値の比較として機能させるために必要になる。

価値観は刺激の入力に対する評価という面でもあり、
逆にそれらの刺激群の記憶の集合ということでもある。

刺激に対して認識し、意識を感じるということは、
刺激を価値観で評価している存在を自分として感じているということか?

刺激に対してそういう価値であると判定している存在を自分として感じているということか?

それが自分であると自分で感じているということか?

自分で自分であると認識、意識しているということか。

とすると、人間が自分自身を自分自身で感じているということが、
自分が自分であると考えている根拠になっているということか。

自分が受けている刺激は、自分が受けた刺激であり、
その刺激は価値観により、自分が受けた刺激の価値が設定され、
その刺激の価値を自分という存在が判定、設定している事を自分で知り、
それだから、自分は自分に認識、意識されて、
そのために自分は存在していると知ることができる。

つまり、刺激に対して行っている一連の反応全てを
自分が行っている事であると知る事の出来る存在が、
自分であると認識、意識される事、それが自我という事になる。

つまり、ボトム。基礎に存在しているのは自分である。


周囲の環境
------------感覚器官
刺激
------------伝達神経
------------脳
刺激

励起

記憶

想起(→価値観)

価値

認識(最も高い価値・刺激から一定量)

意識
------------
自分

脳以下の行っている全てが自分ということでもある。

意識から先の自分に至るこれが、
今人間の知能にあって、人工知能のモデルに無いものであり、
今私が知りたいこと、考えているモノである。

------------------------------------------------------
意識とは:
「連続した刺激の認識をしている個体としての自分を感じる事」
------------------------------------------------------

つまり、自分を感じるには、ということ、
つまり、自分で自分を知っているというのはどういうことであるのかが分かれば、
人工知能にも自我が与えられる事になる。

恐らくそれほど難しい事ではないのだと思う。
ただ、当たり前すぎて自分で気が付かないのだろう。

では、それは何なのだろうか?

あるいはその全てか?

今自分の右手人差し指を右手親指で押してみた。
自分の右手人差し指が、個体が触られた感触を知るのは自分だけである。
今自分は脳内でその刺激を再現して意識、認識している。

人工知能で行っていないのは何か?

人工知能で行っていないのは、
刺激の入力は行っている、
刺激の情報も送っている。
刺激の情報は記憶できる。
刺激の記憶を想起しているか?していない。
刺激を認識しているか?していない。
刺激を意識しているか?していない。
自分を自分で感じているか?していない。

とすると、現在の人工知能が行っているのは
刺激の情報を情報として入力して記憶しているところまでという事になる。

ここから先、自分を知るためには、
その刺激を入力している器官、その感覚器官が自分の一部であると知る必要がある。
つまり、自分の範囲を設定する必要がある。

つまり、自分という個体が存在する範囲を自分でまず知る必要があるということ。

手や足、体、頭、顔、内臓やら髪やら、
それら、の存在が自分の範疇にあるものであると先に知る必要があるということ。

つまり、その後の刺激は、自分の範疇にある存在が受けた刺激は、
自分の刺激であり、その刺激は自と他の境界に生じた差の情報であるということ。

自と他の差に情報があれば、自分を他の中から切り離して知ることができるということか。

実際の所、自分の範疇ではあるが、内臓などは自分で自分の内臓を認識することはできない。
自分のものでありながら自分で認識できていない。
空腹やら痛みやらがあったときに初めて自分の一部であると認識、意識できるが、
普段は自分の範疇でありながら、その認識対象としては他の存在であると言っていもいい。

知能にとってはその刺激が、情報が存在するまでそれは自分で自分であると認識していないということになるだろう。
つまり、刺激が生じて認識、意識する事で初めて自と他の境界を認識、意識することが出来て
自分を感じることが出来るという事か。

寝ている間に自分で自分を感じられないのはそれなら当然ということになる。

ということは、自分の存在を感じるという事はどういうことか?
自分の受けた刺激を、自分で受けたと感じ、その存在こそを自分であると知る事の出来る存在。

知能が作り出す自分か。

知能が自分自身であると認識しているのは、知能が自分で作り出している自分の事か。

つまり、自分が発現しているのではなくて、知能が自分を作り出しているということか。

人間の知能が自我を持つのは、知能が自我を自ら作り出している。
知能から自我が発現するのではなく、知能は自ら自らの自我を作り出している。

知能が、
自分の体はこれである、
自分の範疇はこれである、自分の感覚はこれである、
自分の感覚から受けている刺激は自分の刺激である、
それを行っているのは自分の知能である。

それを自分自身の知能が行って、自ら知っていることが自我になる。
ということか。

今日はそろそろ時間なので
また今度まとめるとする。


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