2022/9/17
寛容さと誠実さ・続き
昨日考えていた寛容さと誠実さの後で
寛容さについてはふと「罪を憎んで人を憎まず」の考え方なら
その性質に合致するのではないかと思った。
その辺りの考察と誠実さについて続きを考えてみる。
「罪を憎んで人を憎まず」の考え方を借りると、
寛容さについて昨日考えていた、
同じ要素の別の対象についての価値の設定を同じにする、という考えにおいて、
問題であった価値が同じ場合に比較ができないという事について、
その対象の要素が同じ場合であっても、その価値のベクトルを価値の絶対値の他に設定すれば、
比較の対象になるのではないかというわけである。
つまり、ある要素の対象について、価値の絶対値は同じものとして価値は同じではあるが、
その比較する内容によって、その価値のベクトルを加味した場合に、
その価値の意味合いとしての大きさが変化し、比較するだけの差が生じるということである。
つまり、比較する内容によって、もともとの価値の絶対値は同じであった異なる対象の価値を、
比較する内容としての方向と、対象が持っている価値のベクトルの向きを揃えた場合に、
その価値の意味する方向の量に差が生じて、比較できるということである。
「罪を憎んで人を憎まず」においては、
人としての本質と、罪を犯した人としての価値を、要素・人として同じものとして
異なる対象にした場合に、その人の本質と人の犯した罪の価値を比較したものと考えられる。
今回はそれらの要素が絶対値で同じ価値があるものとして考えたが、
どちらも同じ人が持つ対象であるので、要素・人においての価値はどちらも同じ人に含まれる対象であるが、
それぞれの本来の意味、価値としては絶対値で同じ価値というわけではないというのは、
前提としておく。
とすると、
「寛容さ」において、人間がその対象を扱う場合、
その機能としては、ある要素を持つ対象において、その価値の設定は、
その要素を持つ複数の同様の対象においては、様々な価値を持つことがあると知る事である。
そして、その価値は、それぞれの対象において、価値がその対象の価値を思考において比較する場合に
同じであっても、その思考する内容・方向によってその価値の向きが異なり、
その思考する内容・方向によって価値が異なる量に変化する場合があるという事を知っていること。
それを前提として価値を比較する事で「寛容さ」を実現しているのではないかというわけである。
現実的な例で挙げるとすると、
何らかの喧嘩の仲裁、もしくは傍観をする立場を考えてみると良い。
喧嘩をしている相手同士は、お互いの言い分があり、それはどちらが折れると言う状態でない場合に、
正反対ではないにしろ異なる向きの同じ価値を持っていると考えられる。
互いに互いのその異なる向きの価値の考え方を相容れない状態であり、そのために喧嘩しているとも言える。
これを仲裁の立場、傍観、まあ第三者的立場から見た場合でも良いが、
この立場から「寛容さ」を含めた状態でその価値を認識した場合、
まず、問題となっている相対する意見の価値は、この第三者としては主観ではなく客観の対象の価値である。
そして、互いの価値を客観的に見て、喧嘩をしているということはその価値の向きは異なっている事が分かる。
そして、互いに折れる様子がないので、互いの価値はその量が、互いにとって等しいか同等という事も分かる。
この状態で、第三者としては自らの主観の価値でそれらの喧嘩する同士の価値を比較しなければ、
単純に客観的にそれらの価値を認識するということができる。
この状態において、その第三者は、それらの喧嘩する同士の言い分としての価値を、客観的に、
等しく認識することができるという事になる。
ということである。
まあ仲裁の内容まで考えると、別のお題で新たに考察した方が良いことになるので、
今回はそこまでは考えないが、
「寛容さ」というのは、つまりは、そういう異なる意見や、価値が存在したとしても、
それらを自らの主観の価値によって認識、比較することなく、
客観的な価値として絶対値が同等の価値として扱うことが出来る事、
そして、それらの価値には異なる意味としての向きがあり、その事も知っている事、
その上でそれらの価値を扱うことが出来る事を「寛容さ」として表している。
そういう事なのであろう。
往々にして人間はどうしても他人が持つ価値を、主観の価値観で認識して価値を設定することになるので、
最初から「寛容さ」を旨として価値の認識をしようとしない限り、その認識した価値に偏りが最初から入ってしまう。
まあ生物の価値の認識の機能としては、「寛容さ」は必要ない為、というか、社会的な生物以外には必要ない為、
どうしても優先される価値の認識は主観が主になるのは当然である。
だから、これを人工知能において、客観の価値認識をその個体が持つ知能の価値認識として、
優先する価値認識にすれば、人間とは異なる知能となることが考えられる。
まあ、個体の体に与えられる刺激の価値は主観のままで良いと思うが、
周囲の環境から与えられることになる刺激を全て客観を優先させて認識することにすれば、
その知能と思考の形態は、人間のものとははっきり異なるものになると考えられる。
私の想像では、感情の起伏の少ない、大人しい知能になりそうな気はする。
悟りの境地も恐らくこのような状態であろうから、悟りもこのような価値認識になるのだろうか。
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誠実さについて
誠実さについては昨日から追加分はまだ考えていない。
昨日の内容として、
誠実たらんとして行動する思考、行動、行為そのものが誠実であり、
主観的価値観の価値として得られる活動であり、
他我にとっての価値とは関係ない所の、主観的価値であるという事。
逆に非・誠実な状態を考えてみると分かりやすい。
「不誠実」という事になるが、
この時は、自らが相手に対して与える思考・行為・行動、つまりその刺激・価値を
偽ったり、騙したり、自身が思う所の価値観の価値のマイナス方向の刺激・価値を
相手に与えようとする思考・行為・行動によって、
自身の主観的価値においてプラスの価値を得る、認識しようとする、満足しようとする事という事になる。
誠実であっても、不誠実であっても、それらの行為によって得られる主観的な価値はプラスの価値である。
寛容さが主観的な価値にできるだけ関係しない事を考えると、かなり主観的に寄った価値のモノだな。
誠実さも不誠実さも、相手に対しての働きかけ、アプローチの中での
知能の働きであるので、誠実さの結果、不誠実さの結果、その知能を持つ個体が、
相手に働きかける前に機能する働きであるという事が分かる。
これは、相手によっても誠実的に機能させる場合も、不誠実に機能させる場合もあり、
これは自分にとっての相手の存在についての価値観の状態によって変化することになる。
この人には誠実にしよう、別のあの人には不誠実にしよう、というように対象毎に変わる事もあるという事。
誠実さ・不誠実さは、自分がその相手に対して何らかの行動をとる時に、
その行動が決定する前に働く要素である。
決定した行動、行為自体に誠実さや不誠実さが含まれるわけではない。
一見誠実そうに見える行動でも、実は不誠実なものであったという事ができるというわけである。
誠実であっても不誠実であっても、それによって自分が得られる価値があるはずである。
行為や行動はともかく、
自分にとっての相手への誠実さ、不誠実さを自分の価値観の中での相手の存在の価値、
それに対して、自身が取りうる行為・行動が、相手に対する自身の行為・行動を行った結果として、
自分が得られるであろう刺激・価値が大きくなるように思考し、欲し、目的と結果の関係を作り出そうとする事。
それが、誠実さや不誠実さの機能ということになるだろうか。
つまり、
誠実さや不誠実さの要素としては、
自身がその誠実さや不誠実さを行う事に対して、自らが得る主観的価値と、
相手がその受ける行為や行動に対して相手が得る事になるであろう客観的な価値と、
相手が得る価値によって、相手が自分に対して感じる刺激や価値、
それによって自分が得る事になるであろう感情的な刺激・価値、
その全てが含まれる事になる。
今日はこの辺で。
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