2022/9/16

価値比較における寛容さと誠実さ

ネットでNTTの人工知能研究における課題に上げられていた
人工知能における寛容さと誠実さについて価値比較という視点から考えてみる。

現在私が考えている知能の本質は価値比較にあると思っている。
価値は刺激と同等なため、刺激比較と言い換えても良い。

刺激は感覚器官から個体が得ている情報であり、
個体が得られる情報の全てでもある。
ちなみに脳が想起によって再現する刺激も一応この情報に含まれる。

さて、いきなり人工知能を対象にして考えるのではなく、
まずは、人間における寛容さと誠実さについて分析してみる。

「寛容さ」として考えられるのは、
一般的には多様な文化や思想の許容である。
これはとりもなおさず、様々な価値の許容ということである。

人間はその生活する土地や国、そこにある歴史や文化、によって
その価値観が構成されているという考えは以前考えた通りである。
この価値観は、異なる場所に住む人間と比べた場合に、
その価値観の違いによる価値の差によって、その後の差別が生じる原因になると考えた。
そして、その中でできるだけ差別を生じさせないようにするために必要なのが
「許容」であると考えたわけだが、
「寛容さ」もこの価値の「許容」と同じものであると考えられる。

人間にはその生命として同種の他より優れていようとする
本能に近い価値観を持っているために、差別は無くしようがないと考えているが、
その中で意識的に差別をなくそうとする考え方が「許容」であるとした。

で、この「許容」が何であるかを考えてみると、
つまりは、個人的な価値観から離れた、
客観的な刺激・価値の認識ということになると考えている。
これは、例えば簡単な例でいえば、
自分にまったく興味のない物事に対して、別の人間がそれぞれの主張を行っていると考えてみるといい。

例えば私の中で一般的に価値が高いものであってほとんど興味のないものについて考えた時に
高級なブランドバッグが思いついた。
メーカーやデザイン、金額であっても、別に例え目の前に並べられて使うなら1つくれると言われても、
使おうという気はまったくなく、まあ売ればお金になるからそれで私が思う価値のある
実用的なバッグが買えるかな、くらいの興味しかない。

この視点から言うと、私は高級なブランドバックの価値に対して、
例えそれがどのような人がどのような価値を持っていようが別にいい、さらに言えばどうでもいいのである。
この考え方が許容ではなく、無関心なのではないかという事も考えたが、
許容は、注意を向けた価値に対しての無関心に等しいのではないかと考える。
つまり、注意を向けた対象、事象に対して、自らの価値を、自らの価値観で評価した場合、
必ずそこには価値の高低の差が生じる。
この時点で許容はできないことになる。

無関心は対象に対する価値観を持たないか、価値観が存在しても
限りなく他の要素に比べて価値が低い対象に対しての価値の評価である。

であれば、どうするかと考えた所、
この対象、事象に対する価値の設定を同じにすれば良いということになる。
事象に対して、相対する、もしくは、複数の意見、価値が存在した場合に、
それぞれの意見や価値に対して同等の価値を設定するようにすれば、
あらゆる対象、事象に対して「許容」が成り立つのではないかと考える。

あらゆる事象に対して、あるがままをあるがまま受け入れるのが、
以前「悟り」について考えた時の答えであると考えたが、
これは価値も含めてそのまま受け入れる、つまり、認識することになるが、
これに少し近い気もする。
今回の「許容」は、あるがままの価値ではなく、
ある相対する要素それぞれに対して等しい価値を与えて認識する事という事になる。

そうすれば、あらゆる対象について差が生じないわけであるから、
差別する事もなく、その対象毎に優劣をつけず、等しいモノの見方ができる事になる。

認識するために刺激、価値が必要になるため、価値の設定は必要になるだろうが、
同じ要素の異なった対象に対して等しい価値を設定すれば良いことになる。

とすれば、この「許容」というものは、
その個体の知能が認識する対象において、
同じ要素の異なった対象に対して限りなく等しい価値観を持った状態であり、
この状態で、その対象について認識した場合に、その知能が持つことのできる状態ということになる。

つまり、
例えば地球外生命体から見て、地球の人間は個体差こそあれ、全員、地球でいう所の「人間」であり、
その存在には価値があったとしても、
別に各個にそれぞれ多少の違いがあっても別にその違い自体に特に意味はないのである。
「多少見た目が違っても、同じ地球の人間でしょ。」という事になる。
この時、地球外生命体から見た地球の人間に対する認識は、認識の「許容」、価値の「許容」ということになる。

そして、「許容」は「寛容さ」と同等ということにもなる。

1点、問題になりそうな点があって、
それは、思考が価値比較において成り立つという点から、
「許容」によって、同じ要素の異なる対象に価値を等しく設定したとすると、
その比較ができないということになる。
極限の「寛容さ」「許容」は、思考における刺激・価値の比較ができないという事であり、
その対象に対してどれも同等の価値を有するため、
それに対して思考する場合に、その比較ができないという事になる。
思考は、168~170で考えた様に、
刺激・価値の欲求から目的と結果が生じ、その目的と結果の関係について
もっともらしいもので関連させる事だとしたが、
今回のこの「許容」の対象について思考する事になった場合、
その同じ要素の異なる対象について思考しようとした場合、
その思考した内容に関わらず、
全ての対象は善悪も価値の大小もない同等の価値のあるものになってしまうという事である。

つまり、善悪の思想についても、善にも価値があり、悪にも同等の価値があるということになってしまう。
まあ善悪の思想は、165で考えた様に善が善だけで成り立つのは難しいと考えたが、
それだけ「寛容さ」「許容」を突き詰めると人間には想像できない矛盾を成り立たせないと成立しないことになる。

では、
これをどうにかして人工知能において矛盾なく再現できないか考えてみる。
人間において、これが出来ないのは知能が個体、個人の持ち物であり、
その個体が持つ価値観が各知能1つにおいて1つであるからという事になる。
そう、もし、知能において、価値観を複数持つことができるならとふと思ったわけなのだが、
ただ、これについて人間もまったくできていない事でもない価値観を持っている。
客観的な価値観である。

主観的な価値観と客観的な価値観である対象についての価値が異なる場合がある。
同じ知能の中で、ある対象について異なる価値を同時に成り立たたせる事ができるということは、
その見方によって異なる価値観を使い分けているという事になる。

ある対象を、自分という、主観で見た場合に思う価値があるが、
この価値は、本来、自分が持つ価値観から生じた価値であり、
本来自分が持っている本当の価値である。
が、
客観的に見た時の価値は、その価値を生じさせる際の価値観は、
自分で持っているモノにも関わらず異なる価値が生じる事がある。
これは、ある対象に対しての価値の記憶が複数存在していることの証明でもある。
つまり、客観視できる事と、ある対象について複数の価値を共存させることが出来る事、
これができる事によって「寛容さ」や「許容」ができる事になるのではないか。

客観視した時に感じる価値観の主観からの解離、
つまり、自分でありながら他人の他我の中から対象を認識したような感覚、
ここに「寛容さ」「許容」の本質が存在するように感じる。

とすると、
価値観の同居というよりは、複数の自我の実装によって、
おのずと複数の価値観を持つことによって許容することが出来るようになるという事になるだろうか。

まあ自我は自我であるという認識がないと分裂症という事になってしまうが、
少なくともこの客観性を主にした刺激や価値の認識は
「寛容さ」や「許容」にとっては最も効果がある機能と言える。

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では、「誠実さ」について考えてみる。

言葉的にそのまま捉えるなら、
正直であったり、嘘をつかなかったり、正しく対象をとらえる事や、真面目な様子と言えるが、
価値的なモノの捉え方からすると、
「誠実さ」というのは、ある対象に対する価値の捉え方をありのまま表すことだと考えられる。

つまり、
一言で言えば馬鹿正直に近いのだが、
少し異なるのは、その価値の捉え方を表す際に、
その価値を表す対象についておもんばかった上で、価値を表すことだと考えている。
つまり、
誠実さは、芯の所では嘘偽りのない思いを込めた上で、
自らの価値の認識について表そうとする事なのであるが、
その価値については、独りよがりな表現ではなく、その価値を表す対象にとっての、
つまりは自分にとっては他我の価値観による価値の認識に至るであろう見方から、
自分の価値の表現がどのように認識されるかを意識、考えた上で、
その価値は変えずに、その表現をその他我の価値観に対してできるだけ
真の価値の意味をもたせつつも、他我の価値観においてできるだけ価値の高い刺激・価値に至るように
表現する事であると言える。

つまり、
自身の真なる価値を表現する事には変わりないが、
その価値を表現する相手にとって、客観的に価値が高く認識できるように意識しながら表現する事。
であると言える。

とはいっても、
相手の気分を害するから嘘を言うのが「誠実さ」ではない。

誠実たらんとすることは、
相手の価値観を認めた、許容した上で、自身の価値観、価値を
嘘偽りなく表現する事、その時に持つ意識、認識であると言える。

つまり、
誠実であろうとするその「考え」こそが誠実さの正体である。
実際に表現される価値や行動、行為にはそのものの価値や刺激しか含まれていないが、
その表現される価値を決める時や、行動や行為を目的とする過程の思考において、
その「誠実さ」が含まれるということになる。

この「誠実さ」は価値でいう所の何になるか。
客観的に見ればその個体が持つ特性としての価値になるが、
主観的に見ると、自らが「誠実たれ」という考えを持ち、
自らが誠実であることが価値が高い事であるという認識があるということだろう。

つまり、自分にとって誠実である事、
その誠実であるように見せる事が価値の高い事であり、
実際にそのように判断することになる。

誠実さの本質は相手の存在と、相手に対する自身の真の価値の表現が含まれる。
そして、その価値の表現においては、それを行う事によって自身の価値の高い行為であり、
相手に対しても、その自分が表現する価値を受け取った場合に感じる刺激・価値として
どのように感じるか、つまりは、
自分の価値の表現ができるだけ真の価値を持ち、さらに相手ができるだけ正しく
自分の価値の表現を、刺激・価値を認識できるようにする事である。

誠実さは、馬鹿正直に相手への思いやりを含めたものとして考えると分かりやすいかな。

つまり、本心を言うのには違いないが、相手の認識の仕方に配慮した言い方にする。
といった所だろうか。

それによって得られる刺激・価値は、
自分が誠実であるという事に対する実際の行動に対してうける刺激・価値、
これは自分自身が誠実であることに対して良い高い価値があるという価値観から生じる事になる。
つまり、
自身が誠実であるという事を相手にアピールすることによって、
自身は自分の価値観において満足にたる価値を刺激として得る事になる。

誠実さにおいては、結局は自分の価値として得られる考え方ということになる。
つまり、
自分が思う所の「誠実な自分」を表現する事で、
自分が満足する刺激・価値を得ているということである。

ただ、
実際に、相手の事を考えていたとしても、完全に相手が気に入る価値ではない事もあるし、
それは客観的にみて真に「誠実」かどうかは分からないという事である。

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人工知能における「寛容さ」と「誠実さ」について

では、人工知能にこの2つを実装するならどのようにするべきかということになるが、
強い人工知能には自我が存在するので、
この時の知能には価値観も存在することになる。

この場合に「寛容さ」を実現するなら
個体差としての人工知能の価値観とは別に、
客観的な他我のコピーとなる価値観を同列、同じ要素の異なる対象についての価値を等しく設定できる
ようにする事になるだろうか。

ただしこの場合は善悪も同列、同じ価値として認識することになる。

どうしても価値に差が生じないと良し悪しの比較もできないことになってしまう。

人間は生まれながらに善でも悪でもなく、それは後天的に覚える価値である。
人間以外の動物に善悪がいないように、それは本来、自然界には存在しない刺激・価値である。

やはり、人間が言う所の「寛容さ」は
差を許容した上でないと実装できない事になるだろうか。

「寛容」でありえる要素、対象についてのみ「寛容」であるならできるだろうか。

人工知能は人間が作るのであるし、
その実装内容についてどうにでもできる。

であれば、「寛容」でありえる内容についても、人間が選択して実装できるということになる。
これは人工知能の本能という事になるだろうか。
つまり、人工知能が突然自我に目覚めて、というような自我は発生せず、
あらかじめ誘導したような自我に行き着くことにしないとならないということになるか。

もし、その人工知能が、この客観的な価値に対してもその差を持って比較できるようになるなら、
その時こそ人間の知能を超えた知能が誕生するということになるだろうか。

まあ「寛容さ」については現時点では
その価値の矛盾をどのように扱うかによって結果が異なるという結果になるだろう。

で、
「誠実さ」については、
人工知能にとっても、あくまで自分勝手な価値になるが、
その誠実たらんとする行動は選択できるようになると言える。

これは「寛容さ」と違って自己完結する価値、価値観になるため、
実装は寛容さに比べれば価値観の実装ができれば容易であると考えられる。

そろそろ時間なので今日はこの辺で。
まあ「寛容さ」も「誠実さ」も、もう少し考える余地はありそうなので、
また後日ということにしよう。


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