2022/9/9
生きる価値・生きざるを得ない制限から
162・163辺りで生きざるを得ない制限という考えに至った。
そして昨日虫が活動する様子を見ていた時にふと
虫の知能において、虫は自分が生きているという事を知る事はあるのだろうかと考えた。
これが小動物だったら、人間でないもう少し大型の動物だったらと。
その時にふと、生きる価値において、人間は自殺する事があるが、
人間以外の動物で自殺する生き物はいるのだろうかと考えた。
事実かどうかは不明だが、
少し調べたところによると、
ハチが自分で自分を刺して死ぬとか、有名な動物においてはレミングスがいる。
ただ、知能的な観点からすると、
これらの自らの生命を絶つ行動をする動物は、
自らの命についての認識や判断は行っていないと考えられる。
つまり、そうするべく遺伝されているためにそうしているというわけである。
この行動の選択が人間の自殺と異なるのは、
その行動を実行するという選択において、知能の価値判断が関与していないという事である。
つまり、それらの動物はそうするべくそうしているのであり、
人間のように生きる価値よりも高い価値があると判断・選択して自らを死にいたらしめているわけではない、
という事である。
つまり、人間以外の動物における生や死の概念は、
自らの命や死の認識が存在するわけではなく、
自らはまず生きているという事しか知らないのである。
そして、自分に対する他の存在が生きているという事において、
他の命に対する認識があるというよりも、
単に他の存在を認識できて、その存在が自分に関りがあるかどうか、
という点においてのみ認識の対象になっているというわけであると考えられる。
その概念は死も同様で、自らの死について判断ができるような生きる価値についてはその認識はなく、
他の存在の死についても、単にその存在が自分に関係する存在の喪失という点においてのみ認識があり、
その死の存在については理解していないと考えられる。
忠犬がその飼い主の死を受け入れられず
特定の場所で待ち続けるという事が世界中でいくつもあるらしいが、
これは犬に対してその飼い主の存在は、
人間が人間に対して思うような生死とその存在の考えではなく、
あるのは自分に対して強く関わり合いのあった存在を
その死という概念が受け入れられずに待っているわけではなく、
強く関わり合いのあった存在の生死についてそもそも認識していないということである。
つまり、
犬に対する飼い主は、その存在が生きていようが死んでいようがそのままの飼い主という認識があるのみで、
その記憶が維持される限り飼い主のまま記憶されているというわけである。
これは人間がその犬に対して同情すると非常に悲しい話となるが、
犬に対する飼い主やその家族の存在は、
その存在が記憶される限り継続されて自分に関りあいのある存在であり続けるのだろう。
だから、その対象が現実に喪失された後もその再会を待ち続けることになるのである。
もちろん、これは人間が認識する生死の概念は犬が持ち合わせず、
その存在のみをその関係と認識しているからであろう。
ちょっと時間がないのでまた明日。
2022/9/10
続き
昨日は犬に対して当てはめた場合の人間の生きるという事についての意味を考えてみたが、
犬にしても他の動物にしても、
人間と同じような関係性をその対象について持っているとは考えにくい。
つまり、今そこにいて見えて認識できる対象について、
今後も会える見える所に居るという考えを持つのは人間であっても他の知的な動物であっても
それは同じはずである。
しかし、その対象が生きていてそこに存在している、という認識に至るのは人間だけである。
つまり、生物が生きているか死んでいるかという認識は、
人間だけが持っているものだということである。
それというのは、
生死に関しての判断はその対象の命の存在の認識が必要となり、
その存在の認識に対してその対象から得られた刺激を認識した際に、
その命の存在についてまで刺激として、価値として認識する必要があるからである。
実際に人間以外の動物に、その命の存在を確認しているのかを確かめる術は今の所ないが、
これまでの動物の様子を見ていて、その対象に命があるか、命が無いかを考えている様子を見たことがない。
まあ動物たちの狩りなどにおいて、狩りの対象となった相手が動かなくなるまで噛みつくなどという事はあるが、
それも生きているか死んでいるかではなく、単に動かなくなるかどうか、逃げなくなるかどうか、
という事しか認識していないと考えられる。
この点において、つまりはその存在の命、生死に関して、
その生きているかどうかという認識ができることは、つまりはその生きているという刺激と、その価値を
認識しているという事になる。
そして、その生きているという価値について認識できるということは、
その生きている事について、命の存在についても認識できるという事になる。
また、命について認識できるということは、その存在が失われた場合の死についても認識できることになり、
ということは、生・死それぞれに認識ができる刺激と価値を認識できるという事になる。
ここで話を戻して生物の自殺についての話となるが、
つまり自殺というのは、生きる価値よりも死ぬ価値が高いと判断する必要がある。
これは、生死それぞれの価値の比較ができる必要があるということであり、
つまりは、それぞれの状態の刺激について認識ができるということである。
であれば、人間以外の動物がこの生死についての認識は、できていないと考えられるために
人間以外の動物に自殺はできないという事になる。
逆に考え、もし人間以外の動物が命や生死について認識しているのだとしたら、
その個体数に応じて一定数の自殺する動物がいてもおかしくないはずである。
それがいないという事は、やはり自殺する、生死についてその価値を比較できるのは人間だけだということになる。
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基本的に生物はその存在が生きるために存在していると言ってもいい。
それは誰かに「生きなさい」と言われるわけでも強制されるわけでもなく、
そこに誕生したからその誕生に従って生きようとするだけである。
それは知能の発現、その高低に関係なく、生物として存在するからには生きるのである。
人間はその進化、生物の変貌の過程で自らを認識するに至る知能を得て、
自我を得たことにより、それは同時に他我も認識するに至る。
自我と他我の認識は、その両方の存在を認識できるということでもあり、
それにより客観的に自分、自我を認識することもできるようになったわけである。
これにより、その刺激・価値の比較において、自分の命の、生きるという意味においての価値を
客観的に認識することができるようになったのである。
これにより、本来は生物にとっては比較する対象に無かった命の存在、その生きる価値について
比較ができるようになった。
そしてついには自分の命の価値、生きる価値についても比較ができるようになってしまったというわけである。
生きる価値について考える必要がないのであれば、
生物の本能に従って生きれば良いだけである。
しかし、人間はその「生きざるを得ない制限」の中で
~しなくてはならない。という事が増えていき、
そして、その全てが実現できるわけではないという現実の認識の中で、
自分の生きるという事についての制限について、様々な刺激・価値の認識をそれぞれ比較しながら
選択する必要がある生き方をしている。
その選択は人間が「生きる」ということそのものの選択でありながら、
その選択における価値の比較が伴う事になる。
全て自分の価値観における価値の高い方を選択しているようでありながら、
その選択にはそれぞれ自分が持つ価値観においての価値と、
自分が選ぶことのできない外的要因、周囲の環境から受ける変化、刺激、価値によって
やむを得ない価値観の価値が加わる場合もある。
そういう価値の比較も人間の生き方には必要になる場合がある。
人間の生きる価値というものは、
~しなくてはならないという制限の中で、
その中においても、できる限りの自分の価値観で、自分の認識できる価値の比較をし続ける事、
それこそが人間の生きる価値になるのではないかと考える。
まあ簡単に言えば、
できる限り自分らしく生きる事。
ということになる。
そのためには、
アドバイスはもらっても、判断を他人に任せず、
成功も失敗も、多くを経験し、多くを学び、
対象の本質・価値を認識できるように思考し続ける事。比較し続ける事。
より良い自分らしい生き方をするにはそれが必要である。
今日はこの辺で。
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