2022/9/6

利己的であるから価値がある

基本的に人間の知能が価値があると考えた時、
その価値は全てが利己的であると考えられる。
言葉としては利他的という他人への奉仕、貢献というような
自分が得る価値や利益より、他人が得る価値や利益を優先するという考えもあるが、
結局は価値を得るのは自分自身である。
今回はその辺について考えてみる。

価値は刺激の記憶に際してその刺激の意味合いの強さ、大きさの事であり、
その刺激に対する好ましいか好ましくないかとその強さの事であり、
知能に関して扱う場合は、刺激と価値の意味は、ほぼ同義となる。

価値基準である価値観は
その個体が過去に経験して記憶してきた価値・刺激の記憶の事であり、
それはその個体の知能が自分自身で保持してきた記憶である。

知能が比較できるのは唯一価値・刺激であると考えられるので、
知能が何かを選択・決定する場合には、価値・刺激の比較が行われている。

知能が優先して選択するのは、その判断、比較を行うタイミングにおける
価値の高い行為・行動である。

この時点で選択されるのは、自身の価値観において価値の高い対象であり、
それはあくまで自身にとっての価値観、価値基準で選択された価値である。

ということは、選択に際しては、利己的や利他的などという考えが先に存在しているわけではなく、
あくまで選択、価値の比較における、単純な価値の比較だけが用いられているということになる。

ということは、知能が何かを比較、選択する場合には、
利己的や利他的という考え方自体は含まれていない事になる。

表題の利己的というのは、自らが自らの知能において価値のある比較、選択を行う事というよりも、
客観的に見て利己的であると見えるというだけの事になるだろうか。
大前提では、価値というのはそもそもが利己的な、というか、私的な価値観であるので、
どのような価値にしろ、結果的に得られる価値は利己的であるのは当然となる。

となると、自分を利するために比較や選択が行われるのは当然として、
利己的、利他的というのはその考え自体は客観的に見た他人の価値の選択としての意味ということになる。

自身が他人の為に何かを行う選択は、
自身にとっては利己的であり、客観的に見て利他的である、ということになる。

自分が他人を利する選択を行った場合においても、
自身が得られる価値・刺激は自分の価値観から生じた目的と結果であり、
それは自身が得る価値そのものが利他的でないものであるから選択できるのであり、
価値が自分で得られないその対象は、その知能にとって価値として認識できない対象である。

となると、「利己的であるから価値がある」のではなく、
「価値は利己的である。ただ、客観的に見て利他的な場合もある。」
という結果になるだろう。

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利他的であると思われる奉仕や貢献という行動について、
自身が得られる価値について。

道徳や信仰、善意、善行、など、
人間社会において善い行いであるという考え方に基づいて、
その社会内において価値があるとされている行為・行動は、
社会を構成する要素となる人間の間で共通して持つことになる価値である。

この価値は、自分が自ら経験し、記憶し、価値観に含めたというよりも、
社会内で教えられたり、慣例や習慣として知ることが先になることが多い。

これらの価値は、人間個人においてはあまり優先される価値ではない。
あくまで社会の中における個人として周囲との関係する事の中で生じる価値であり、
一般的な生活における中での価値としては緊急度の低い価値である。

それでも、他の価値に比べて価値としての程度は低いが、
その行動の余裕があるために利他的な行動は、社会の中で崇高な高次的な価値として考えられているために
選択されることになるが、
実際に個人が得ている価値はどのような価値にしても自分にとっての価値観から生じる
自分のための価値なのである。

とはいえ、価値を得るのは、全て自己満足、
自分が満足するために行っているのだろうという考えだけではないのが少し難解な所で、
利他的な行為や行動を選択する場合、実際には自分に対する価値の取得を目的としているのだが、
その選択は、自身を客観的に見てその価値を得ていると考えられる。
つまり、個人だけで考えると、自分の価値を自分自身で得るために、
その行動を選択する事になるのだが、
この時の価値の取得は、
自分自身を客観的に見て、その自分の行動を客観的な他人の価値を得る行動を
自分の価値として考えて選択・行動してその価値を得ているということになる。
つまり、自身を他人として考えながら他人が価値を得る事を自分の価値として認識している
ということである。

これがなぜできるのか?
意識は、
「連続した刺激の認識をしている個体としての自分を感じる事」
として、その瞬間における最も強い刺激を認識するのが自分であると感じる事に
自身の意識として存在することになるのだが、
社会性を持つことによって自分以外の存在についても認識する必要が出てくる。
つまり、自我でない他我についても自分以外である存在として認識する必要が出てくる。
この中で、自分にとっての価値は、当然自己完結する自身の価値なのであるが、
他人もその他人の中における他我において、各個が自分と同じように価値を得ている事を
知る事になる。これは、自我における自身の価値を得るのと同様に、
自身が得られなかった価値を他人が得ている様子を知る事によってそのような見方を経験することになる。

これにより、自我も他我も価値を受け取る事があるということを知る事になる。

ここで、他人の得ている価値は、自分で扱う価値としての良い価値ばかりでなく、
自分で認識した場合に悪い価値であることもある。

例えばある刺激が存在していた場合に、自分は過去にその刺激を経験しており、記憶している。
その価値は良い価値であったという場合に、他人がその刺激を価値を得ようとしている様子を見れば、
その刺激、価値を他人が得るという事を、自分の過去の経験として再現し、想起して認識することができることになる。
この場合に、自分がその刺激を得られなくて残念とか、悔しいとか思うのと同様に、
その他人が自分にとって好ましい価値ある対象であった場合に、自分の事の様に嬉しく思う事もある。
これは、実際は他人が得た刺激・価値なのであるが、それを自分の記憶している価値として
再現しているということになる。

もちろん、この価値の逆で、悪い刺激に対して好ましいと感じる他人がその刺激を認識している様子を見れば、
同情したりすることになるし、
疎ましい(うとましい)と感じる他人がその刺激を認識している様子を見れば、
いい気味だとか感じることになる。

要するにこの事が、
「価値は利己的である。ただ、客観的に見て利他的な場合もある。」
ということ、
良し悪しの刺激・価値も含めるなら、
「価値は自分勝手なものであるが、他人の価値を自分の価値として受け取ることもできる」
ということになる。

今回はこの辺で。


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