2022/9/2

脳内の思考における刺激の扱い

170で脳内における文章の音声再生は、
脳で行われる思考そのものとして表せるのではないかと考えた。
今回はその脳内で行われる思考に際して、
その文章や音声再生等の刺激がどのように扱われるのか考えてみる。
また、この文章や音声を使わない場合における
知能活動についても考えてみる。

知能活動全般において、170で説明したように、
基本的な知能活動は、
価値の欲求に対する目的の発生と、
目的とセットで作られる結果について、
その間に存在する関係を試行錯誤しながらつなぎ合わせる事であると考えた。

この時、思考していると意識する場合においては、
その思考の内容は文章や音声などの言語や、その対象としての
刺激、五感で代用しうる対象を操作する形で思考が行われることになる。

ただ、今文章によって考えている思考以外にも何か考えることがあるのか
想像してみたら、図形を操作して組み立てたりすることもあるなと思った。

となると、言語や音声だけというわけではなく、
よくパズルであるような展開図や、立体図形、を視覚の対象として、
とか、
味の組み合わせを想像するような味覚や、もちろん
嗅覚や聴覚や触覚もその思考する対象になりえる。

そうすると、知能活動は、その感覚によって
その目的を結果と結び付ける脳の活動ということになる。

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普段の生活において
何かの刺激を受ける。
受けたと感じる刺激はその瞬間において最も強い刺激であり、
これが繰り返されることが意識があるという状態である。
これは、連続する刺激の認識が意識であるということであり、
その発展形の連続する刺激の認識が、
「連続した刺激の認識をしている個体としての自分を感じる事」
が意識であるということ。
つまり、これは、連続して刺激を認識しているのが、
自分である必要があるということであり、
自分であると認識できる個体が受けている刺激であるという必要があるということである。

そして、
刺激は、記憶されて想起された時に初めてそれが刺激であると分かるものであり、
その刺激はその刺激の意味する内容が不明であってもそのまま一度記憶はされる。

そして刺激には脳が比較対象にできるようにその刺激の意味としての1要素として
価値を設定することになる。
この価値は、その刺激がその個体にとって意味の大きなものであるかどうか、
意味の良いものであるかどうか、という情報が設定される。

そしてその後、この刺激に対して、
その個体が欲する対象、欲求の対象とした場合に
その刺激を得たり、解消したりするような目的が生じる事になる。
目的には結果も同時に生じ、
その目的と結果を現実のものとして正確に認識しようとするために、
知能活動としての思考が知能の活動として実行され、
実際の個体の動作や行為、行動、に意志としてその活動が認識されることになる。

生命の知能活動、その生存のための生活、など、
生命活動においては、刺激が全ての基礎になっている。
生命として得ている情報はその生命が持つ感覚だけであるので、
その生命が得られる情報というのは確かにその感覚から得られる刺激だけである。

であれば、その刺激の情報のみを知能が扱っているわけであるから、
知能の活動も刺激の情報のみで成り立つというわけである。

つまり、人間の知能においては不確定な要素は存在せず、
その知能活動はその知能を持つ個体が所有する刺激の情報のみから成り立つということになる。
つまり、
思考やそれに類する知的な機能は全て刺激を基にして考えられるということになる。

であれば、というわけであるが、
人間が思考する際に、脳内で何をどう扱う事によって思考が実現し、
実行されているのか、その際に刺激をどのように扱い、操作しているのか
考えてみれば思考する内容、機能、意味を知る事ができることになる。

現時点では、
人間の知能は、その個体が欲する所の欲求、それによって
その欲求を解消というか、実現というか、つまり、
その欲求の対象となる価値を入手するための思いが生じた場合に、
これを実現するために働くものである。

だいたい、価値は刺激でもあるため、
知能はある特定の刺激を得るために働くものであると考えられる。
目的となるのはその刺激に対する欲求であり、
結果もその刺激である。
つまり、目的と結果は、その刺激に対する望み、渇望そのものということでもあるのか。
目的と結果がセットで生じるというわけではなく、
目的こそが結果そのものであり、意味合いとしては同時に生じていたわけである。

要するにその刺激に対する望み、それこそが目的でもあり望まれる結果でもあるということか。
欲求という単に不足する何かを得ようとする求めではなく、
いや、別に刺激を求める事であれば、
言葉は何でもよいか、欲求でも目的でも望みでも渇望でも、
それは言葉の表現のみでその求める強さの度合いというだけであり、
そこにあるのは価値の、刺激の大きさだけであるか。
つまりは、個体が刺激を欲する事。それが全ての始まりということか。

生命体がその自己保存の為に周囲や自身の変化を情報として得るために、
その器官、感覚器官を生じさせたように、
知能活動はその延長線上にある機能であるというだけのことか。

ということは?

生命の知能にある本質というものは、
生命が生命として必要とする情報を刺激として受け取り、
その刺激の情報を解釈して生命本体の活動に役立てる事。

要するにそれがやりやすいように
感覚器官を作り、感覚を分け、
刺激を解釈するための脳を設け、
感覚から得た情報を刺激として受けて記憶し、
想起・思い出すことが出来るようにして、
ついには生命の個体が、自発的に周囲に働きかけできるような動きの能力と、
その動きの能力を自発的に制御できるような記憶とその動きの再現の想起、
それが最終的に知能として獲得することになった能力であるというわけか。

他の生物種に対して優位にあろうとした結果、
このような知能という能力を得たということか。

生物が獲得した能力は皆、環境への適応の為に得た能力であるなんて、
みんな知ってる進化の当然の事。
にやっと到達したという事になるか。

ただ少し人間の知能が他の生物種の能力と違うのは、
自発的に周囲への環境への操作する力を持つことになったという事である。

他の生物が持つ周囲への環境への操作する力は、
その行動の結果として伴うだけのものであり、
目的を達するために実行した結果、周囲への環境への変化が生じるというものであるが、
人間の環境への操作は、その目的に直接関係するわけではない場合があるというわけである。

これは、別に何かを食べるために葉っぱをちぎったり、
土を掘ったり、別の生物を獲ったり、という意味ではなく、
別の食糧を得るために別の生物を枯らせたり、取ったり、
水の流れを変えたり、風を防いでみたり、
つまり、何かの目的を達成するために、別の目的を設けて実行することができるという力である。

道具を扱う事の出来る動物というのがいて、
これはこのある目的の為に別の目的を設けて実行できているという事である。
つまり、道具を作る、用意するという目的を達成した後に、
本来の目的を達成する、達成できるという事を知っているという事である。

これを人間の知能に当てはめると、
人間の知的な知能の高さというものは、この本来の目的の為に実行する事の出来る目的を
多段に設ける事ができるという事になるのではないか。
と、これは、つまりは知能の高さは、
この目的の為に別の目的をどれだけ多段に設けて実行することができるかということになるのではないだろうか。

人間の活動においては、この知能活動における目的の段数についてはあまり意味がない。
自然界とそこにある人間界は割とシンプルにできているので、
通常の生活を、つまり人間らしい知的生活を送るためにはそれほど多くの目的の段数は必要としない。
しかし、これを人工知能に当てはめてみると少し様子が変わる。
自然界はシンプルだと言っても、人間が理解しえない自然界の要素というのは割と多くある。
これを人間が理解できないとしても、人工知能が思考能力を得た場合に、
この目的を達成するための目的の段数が人間よりも多く設ける事ができるとすると、
恐らくではあるが、人間の理解力よりも優れた理解ができると思われる。
人間が保持できる記憶の量には限りがあるし、想起によって用いる事の出来る刺激の要素には
その忘却のシステムからも限りがある、もしこの制限がなく、
人間よりも多くの刺激の情報を蓄え、より正確に想起し、その目的の段数が多く設けることができるのなら、
まず間違いなく人間の理解力を超える事ができるはずである。

少し話が戻って思考の話になるが、
思考は目的と結果の関係をより正確につなげる事だと考えた。
つまり、この目的と結果の関係をつなげる事が思考なのだというわけだが、
これは、そのまま思考において、
目的の為に別の目的を設ける事、それがこの目的と結果をつなげる事、思考なのではないかと今考えた。

つまり、
思考は、目的と結果の関係をより正確につなげる事であり、
それは、
その目的と結果の関係を繋ぐために、
別の目的と結果を使う事なのではないかというわけである。
要するに、
ある問題に際した時に、この問題の答えを得ようと考えた時、
その問題に関する別の問題と答えを使うことが出来る、使おうとすることが出来る、
それこそが思考であり、知能なのではないかという事である。

目的と結果、それら同士の関連、関係は、脳内では割とシンプルである。
ある刺激に対する神経細胞の繋がり、シナプスの形成のみである。
より多くを知り、多くの刺激を記憶すればその刺激の関連は多く増え、その繋がりは複雑になる。
ある刺激を認識した際にはそれに関連する刺激が励起され想起されやすくなる。
思考に際しても、その目的と結果を認識した際に、それに関連する刺激、記憶が励起され想起されやすくなる。

思考のきっかけは発端となる刺激を欲する認識であることは間違いなかろう。
それによって目的ができ、目的には暗に結果も付随している。
そして、その目的となる最初の欲求した刺激を得るためにどうするか、
その目的と結果を満足させるための関係を別の過去の経験を想起して、
その想起された刺激が関連している目的と結果を最初の目的と結果の関係するものとして
思考したものとして再現することで最初の目的と結果の関係を満たして
その関係となった目的と結果を実行することで、最初の目的となる欲した刺激を得るに至り
思考とその行動をとったことが一連の目的の達成のための知的活動となるというわけである。

今日はそろそろ時間になるが、
この思考と目的と結果についてはもう少し考える余地がありそうな気がする。
今日はこの辺で。


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