2022/8/29
思考の展開
168・169で考えてきた思考だが、
その思考は知能活動の汎用的なものであって、
考えてみるとその他の知能活動も同様の活動を行っているように思われる。
今回はその辺りについて考えてみる。
169であった思考について考えていた時に、
改めて169を読み返していたところ、
そういえば何かの文章を読むということは、
頭の中でその文章を発音しながら読んでいる事に気が付いた。
つまり、169で書いた思考しながら脳内で文章を組み立て、
それを発音しながら思考しているということは、
この何らかの文章を読むという行為・行動も、
思考している事と同じと考えられるのではないかと思った。
つまり、意識的に自発的に思考する活動と、
例えば参考文献として何かを読んだり、
これは別に学習用でない文章であっても、読むという行為・活動は、
思考しているのと同じ様な脳の活動であり、
脳内にその目的や結果がある・ないに関わらず、
その活動の結果、思考においては記憶としての目的と結果、
一見、思考ではない何かを読むという行為についても、
その文章の書き手が意図した意味の説明を模倣して文章として読むことにより、
その文章が意味する目的と結果を経験することになるのではないかと考えた。
という事はである、
読むという事以外にも、例えばおしゃべりとか、
朗読を聞くとか、何かしらの文章、その文章の音を聞く、
脳内で再生するということは、思考しているのと同じ事になるのではないかというわけである。
もちろん、文章や音声で対象の用語を聞いたとしても、
その用語や単語、意味を知らなければ、その文章や音声の意味する所まで
理解したり、認識したり、その関連する用語、意味を目的と結果としての
関連をつなげる事はできないが、
それはあやふやな用語の意味のままでも認識して記憶し、想起する対象にはなりえる。
そうすれば、後にその用語の本来の意味を知った時に、
その関連は過去に聞いたことのある本来の文章の意味として理解できるということになる。
ということは、読む、書く、しゃべる、聞く、などにおいて、
ともかく脳内での文章の発音が関係する行為・行動については、
思考している事と同じと捉えることが出来るということになる。
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話しかけられて思考が邪魔されるというのは、
耳から入ってきた音声により注意がそちらに向かって邪魔されるというよりも、
その話しかけられて聞いた音声の文章が、脳内で再生されることにより、
その文章に対する知能活動としての理解するという認識、思考と同様の活動が
そちらで使われてしまう事により、自発的に行っていた思考の知能活動が行えなくなるために
注意や意識、認識がそちらで使われるために元々の思考が中断されて邪魔されるということになる。
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1点、少し話は変わるが、
現在意識して行っている行為・行動があるとして、
別の割り込み的な行為・行動が優先されて入ってきた場合に、
先の行為・行動が中断されて保留されるということが発生する。
この場合、先の行動の目的や結果は自動的に保留されるのだが、
あえて注意を向けておかないとその励起された強さが時間経過とともに下がってしまい、
中断された用事を済ませた後で詳しく思い出せないという事になる事がある。
「あれ、そういえば何かしようと思っていたのに思い出せない」とか、
「今何かをしようと思っていたんだけど」とか、
もともと考えていた事と違う事を考えていた、というような
集中して思考している最中にあっても、
その思考の関連によっては別の目的や結果と関連がつながってしまい、
そちらの要件についての目的や結果について思考することになっていたということがある。
これも普通に考えて思考の活動からすると普通に起こりえることであり、
その頻度はその知能と、その個体の置かれた状況・今受けている刺激や環境の変化によって変わることになるが、
知能の活動としては普通にあり得る事である。
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知能における思考するという行為・活動がこれまで書いた内容であるなら、
予測や予想、空想、想像、創造、とにかくその知能活動において、
その活動の目的と結果を有する行為・行動は全て同じ活動として表すことができる。
目的と結果はその欲求、欲する所、将来獲得するであろう価値、刺激という事であり、
その目的と結果の間の関連を構築すべく、知能が活動することになる。
それ以外に知能の活動はあるだろうか。
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ちょっと話は変わり、
人間以外の動物などにおいて、その知能活動はその知能が知りえる対象に対する用語、
その認識の度合いに応じて知能程度が変化する。
文章として理解できていないにしても、恐らく会話をしているだろうと言われている動物もいるし、
それらの動物の知能はその知能が認識しうる対象の把握する数に応じて比例するはずである。
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話を戻して、思考以外の知能の活動である。
そもそも目的や結果の無い思考活動というのはあるのだろうか。
もしくは、知的生命において目的や結果の無い活動というのはあるのだろうか。
無いなら全ての知能活動はこれだけで説明ができる事になる。
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そうそう、習慣について。
昨日考えたのだが、思考はまあこれまで通りの説明でいいとして、
習慣について考えた時に、習慣というのは目的と結果が既にその関連も含めて出来ていて、
それが価値の高い状態で記憶された状態にある。
そして、いざその目的が必要であると発生した場合に、優先的にその結果が予測されるために、
自動的にその関連する知能活動、実際の活動・行動が速やかに行われることになる。
そういうものであると考えた。
習慣を後から変更しにくいというのは、習慣は価値の高いものとして長期間使われ続け、
想起もされやすく、物理的なシナプスの繋がりも強い状態にある。
シナプスは時間経過で弱くなるのだが、たびたび想起されることによって強化が続き、
さらに想起されやすくなる。
そういった記憶を変更するには、それ以上の強い刺激が、経験が必要となるために
変更しづらいということになる。
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話を戻そう。
知能活動以外の活動を考えていて、
本能は目的と結果とその関連する行為・行動が遺伝として継承されているものだと考えられる。
その点から見ると、後天的な知能活動は、かなり汎用性が高い活動であると考えられる。
まあ特に人間などにおいては、生命サイクルが他の動物に比べて更新の頻度が遅いため、
長期の生命維持の間に環境の変化などが大きかったり、多かったりすることになるので、
その汎用的な可塑的な知能活動できる容量が大きい方が生命維持に有利になるために
今の様な個体が残っていったのだろうと考えられる。
今日はこの辺で。
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