2022/8/14

正義と悪の在り様

ほとんどの物事が刺激とその価値で表せるという事が分かり、
ふと人間の知能に特有の正義や悪といった概念も同じように
刺激や価値で表せるのか考えてみた。

まず第一に正義や悪といった存在は自然界には存在しない。
そもそもの絶対悪や絶対的な正義というのも存在せず、
あるのは人間が思う概念である。

基本的に正義や悪といった概念は、
周囲に迷惑をかける存在を悪、
その悪を懲らしめる存在が正義と言われている。

悪の存在しない世界では正義は存在しようがなく、
正義が存在するからと言って悪が生じるわけではない。
つまり、悪のみは単独で存在しうるが、
正義のみは単独では存在しえない。

正義のみが存在しうる場合には、
正義は悪を作り出さないと自らを正義と呼べない。

また、
正義の概念、悪の概念についてだが、
それぞれ自らが行う行為について正義や悪といった認識を行う事はあっても、
正義だから行うべきである、悪だから行うべきではないという認識はないはずである。
つまり、
自ら信じる、行うべき行動が正義か悪というだけのことで、
その行動は自身の価値観に基づいており、
その行動は行動を行う当事者にとっては価値の高い行動である。
そしてその行動は自分にとっては正義でも悪でもなく、
第三者がその価値観において正義か悪かを判定しているだけである。

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人間が信じる正義の価値は、
これまた人間が行う悪に対する善と呼ばれる価値であり、
人間がお互いの生活を行う中で、
他人へ迷惑をかけるような存在である悪に対して、
その悪をそのお互いの生活をする圏内から排除しようとする行為、行動に対して
正義であると言われるものである。

一方で悪を行う存在は、その行為、行動に対しては他人に関せず、
自己中心的な価値観によって価値あるものであると認識して行っているとされる。

ただし、1点注意する点があり、
正義の概念と悪の概念は互いに相反するものであるということである。
完全なる正義が無いのと同様に完全なる悪というものもない。
これは人間が自らの集団における多数の幸福を守る行為が正義であり
それを妨げる行為が悪と呼ばれるだけであり、
この集団における正義と悪の概念は、他の集団においても同じとは言えない。

これはある集団における多数が考える正義は、
別の集団における多数が悪であると考える事である場合もあるというわけである。

簡単な例を挙げれば国家間の戦争・紛争などはこれによって引き起こされる。
各個人がそれぞれ独自の正義や悪の価値を持っていたとしても、
国家という集団においての正義や悪の価値とは異なったり、
他の国家に対しては正義や悪の考え方が真逆の場合があるというわけである。
つまり、集団においては互いに自分達が正義であり、相手達は悪なのである。

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人間が互いに協力し合って社会を構成するに至り、
その集団としての社会の中で、最も多数が幸福を得られるようにするのが
最も良いと考えられることもあるが、
これは、集団における幸福を得られる数が最も多数によって構成されるため、
その多数が信じる幸福が良いモノ、正義であると考えるようになるからである。
つまり、
集団における最大多数の最大幸福は、幸福を受けられる者たちが、
最大多数であるようにするべきである、という事ではなく、
幸福を受けられる者たちが、最大多数でいられるように仕組まれた仕組みになっているというわけである。

多数のトリックとでも言える多数の仕組みであるが、
自分が多数でいる間は何も問題も文句もない立場になるが、
少数になった場合はこれほど問題に考えたり、文句が出る仕組みもない。
幸い、集団の全員が多数でも少数でも全ての人間が声を上げる事はなく、
少数の全ての人間が排除されることもない。
多数では多数の中の一部の者たちが多数を声高に叫ぶだけであり、
少数では多数に目を付けられて悪にならないようにひっそりと行動するだけである。

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本当の意味での正義、真なる正義があるならば、
それは集団の中から悪を生み出さないよう行動することになるだろう。
一見、それは正義であるようには見えない行動であるが、
悪を未然に防ぐ行為が真なる正義であると言える。

常に悪に対峙する存在であるから正義であると主張することは、
悪を作り出さないと正義でありえないという事になる。
多くのルールや規則を作り出し、
それに違反する者を悪とする、
そしてその悪に対峙する者を正義とする、
一見正しいようにも感じるが、
正義たる者は、ルールや規則が無い場合においても、
未然たる悪が存在したとしても、
真なる正義を求めて行動できるのかという自問と行動が必要になる。

だから、完全なる真なる正義を求めるならば、
多くのルールや規則を必要としない社会を構成する事こそが
正義の存在を必要としない、逆に真なる正義の存在する社会になるということである。

これを考えながら、
1つの解決策というか指針のようなモノを思いついていた。
人間の行動はすべて刺激、価値によって制御されているというのは
これまでの考え通りである。
つまり、価値が高い行動、行為を人間は常に求めているということであり、
ということは、その人間が知る行動や行為に対する価値を学ぶ際に、
その価値ある行動、行為をその人間社会全体における価値の高いもの、刺激を
多く学ぶようにすれば良いというわけである。
知らない刺激、知らない価値について考える事ができないように、
逆に知っている刺激、価値であるならば、その刺激や価値を基にして
その人間の行動を常により良い存在である者として行動させることができるだろうというわけである。

しかし、これには人間の集団として世界が対象となる必要があるというのが
難点である。
国家毎に異なった価値が存在する現在においては、
この方法を用いることができない。
また、マインドコントロールに近い考えでもあるし、
いざ世界平和が訪れた後に、独自の価値観を持つことが価値が高いという社会がやってくる事も想像できる。

まあそれも人間の多様性を保持するということにもなるのだが、
現状がいくら続いても世界平和は絶対に訪れない。
そもそも人間は世界平和を叫びながら結局は
叫ぶ自分の価値が高くなるように世界平和を構想しているのだから。

人間の正義と悪の在り様というのは、
結局、自分が持つ価値の在り様のままということになるのだろう。

ほとんどの人間は、自分の価値を最優先し、
できるだけ他人に迷惑をかけないようにする。
このくらいの考えの者が一番多いだろうと思われる。

私自身はこのような考え方をしている。

今回はこの辺で。


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