2022/8/12
刺激の受け入れ方
163で書いた刺激についての認識、知覚として
意識としての連続した刺激の認識という考え方はそのままに
その刺激の捉え方として
全ての刺激を受け入れる用意をしつつも
その中で生きるために必要となる刺激を優先して認識しようとする事が
生命としての刺激の受け入れ方であり、
かつ、
生命の生きざるを得ない制限としての知能の在り方として、
出来るだけ価値の高い、刺激の強い、刺激を認識しようとすることを
優先する事が
人間の知能の刺激の受け入れ方なのではないかという点について考えてみる。
今回の内容としては恐らく確認のようなものになるであろうと思われるが、
シンプルに考えて、生命として存在する人間のその知能は、
基本的に刺激を情報の中心として処理する器官である。
生命が知能を持つ場合であれば、人間に限らずこの機能は同じであり、
少なくとも地球上の知能はすべて刺激を取り扱う器官である。
そして刺激については、
その強さがその刺激が持ち合わせる情報として最も大きな意味を持つ。
そして、その刺激の強さの他に、
その知能を持つ生命にとって価値の高い意味を持つ刺激であるか、
価値の低い意味を持つ刺激であるかという意味の情報が脳によって付加される。
この価値の高低は、感覚としての刺激の強さには関係なく、
脳がその刺激に対して付加される後天的な情報・意味である。
この辺りの事は価値観として考えている事である。
そして、
知能は基本的に刺激を求める一方で、
その知覚したがる、認識したがる刺激は、
価値の高い、刺激の強い刺激である。
生命の維持、保存、など生命に関する基本的な刺激ほど価値が高くなっている。
そして、価値の価値観は時間経過によって変化するものであり、
その知能を持つ個体の経験や成長・学習によって価値観は変化する。
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人間の知能は、
その手で持って操作できる対象を握る事が出来たことで
獲得できたのではないかと今思った。
手の操作によって知能が発達したというよりも、
手で操作できる対象を知りえたという事の方が大きかったのではないか
という点である。
つまり、認識する対象としての物を、自らが操作できる対象であると
認識できたこと、それが大きな意味を持ったのではないかという事である。
自分以外の対象としては他の生命であっても群れを作って生活する生物はいたので、
自分以外の個体を仲間として認識することは人間以外でもあったはずである。
しかし、群れを作り、さらに操作できる対象、まあ道具となるのだろうが、
道具を使う生物はあまり多くない。
まあ現在も群れを作りさらに道具を使う生物は人間以外にもいる。
もし人間が地球上から消えて、それらの生物がこの先長い年月をかけて
人間の様な知能を持つにいたるかを考えてみると、
可能性としてはかなり高いと考えられる。
これも恐らくであるが、人間がこれだけの知能を得たのは、
個体数が増えたことによる争いがきっかけになったのではないかと考えられる。
つまり縄張り争いが、その生存をかけた知能の働きに効果的に作用し、
より生き残ろうとした結果として知能を発達させ、
まあ人間であれば武器や道具を使い、作り、それが出来た群れが生き残ったというわけである。
自分たちが繁栄するためには、他を打ち倒せばよいという考え方である。
この考え方は人間に限ったことでもないが、
生命の維持、保存、存続に対しては、
あまりに単純に勝ったものが生き残るという理屈である。
要するに自分の所属する群れ・グループ・団体が生き残るには、
他を打ち倒せばよいという考え方である。
未だに人間の世界で争いが無くならないのは、
生命の基本的な考え方の中にこの自分が、自分らが生き残り、
より繁栄するためには、他を打ち倒すという考えが根幹にあるからである。
例え、理屈や理想、思想、倫理、それらをもってしても
生命の根幹にある自己の保存や維持に対する価値は非常に高いものである。
であれば、その価値を得ることは、生命の知能の活動としては当然であり、
それの意味、価値を自らが認識することも当然になるはずである。
人間の刺激の受け入れ方や、生きざるを得ない制限、
その価値の在り方、価値の設定の意味、そういった物を考えてみても
人間の知能は、刺激を価値を求めるような器官として発達したから
今のような状態にあると言える。
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少し話が変わってしまったが、
結局、皆、誰もが自分勝手という事になる。
これは別に悪い意味ではなく、自分勝手というのは、
結局の所、その対象から受ける刺激に対しては
自分の価値観でその刺激の意味、価値を設定することになるため、
あらゆる認識は全て自分勝手ということになる。
これは良い悪いではなく、価値観から得られる刺激の価値は
そのようにして自動的に決められるという事である。
何かに良い悪いがあるとすれば、
それは自らが設定する価値についてだけであり、
その価値を設定するに至る価値観の形成においての良い悪いだけである。
人間が互いに皆が良いと考えればそれは良いであり、
皆が悪いと考えればそれは悪いとなる。
しかし、人間の全てが良いと考えることはなく、
皆が悪いと考える事も無い。
現在においてそのようなものは何一つ存在しないだろう。
価値の介在しない存在があるとすれば
それを認識できたときに初めてその刺激は対象は
真理という事ができる。
自分の意識をどこにも向けず、
心を平らかにして、
あるをあるがまま受け入れること。
刺激の受け入れ方としては
普通に考えるとどのような刺激に対しても
自分の持つ知能が持つ価値観を基にして
その意味合いを付加して認識するということになる。
そして、
もし、それを手放して認識することができたなら
それは良いも悪いもないあらゆる存在の真理ということが言える。
今日は疲れたのでこの辺で。
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