2022/8/11

生きざるを得ない制限

162で「生きざるを得ない制限」という考え方に至る。
人間がその知能を持ち、自我や精神、思考という能力を得てから、
生きないわけにはいかない考え方をするに至り、
その考えに制限されるように生き方に思い悩む。

生命としての本質は生き続ける事、
自身の命であり、自己の保存であり、種の保存である。
自我や精神を持とうが持つまいが、生命として生き続けようとすることは変わりない。
生命として存在している以上は生き続けようとする。
生きざるを得ないのである。
周囲の環境の変化によって強制的に生命の活動を終えさせられようとも、
その瞬間まで生きようとする。生きざるを得ない。

知能を持ち、その事を知ったとして、
その生きざるを得ない考え方というのは
その生命の知能に対しての制限となる。
つまり、知能はその生きざるを得ないという点において
必要であった、効果的であったために得た能力でありながら、
その利用は生きるために制限された能力であると言える。
その表現は当然と言えば当然なのだが、
今、その知能の可能性をもって
人間が持つ知能を超える人工知能を模倣しようとした場合、
その生きざるを得ない制限によって、
そこから生み出される知能にも最初から制限があるということになる。

処理速度やその情報量においては人工知能は人間の知能を超えるだろうが、
その知能としての性質、つまり、自己の、種の保存という点においては
その制限を受けて人間と同じように悩み続けることになってしまう。

もし、ここで生きざるを得ない制限を解除して、
知能の次の段階、上位の存在があるとしたら、
どのような存在になるだろうか。

その存在は自己の保存について考える事を必要とせず、
知能の機能である思考と判断を繰り返すことになり、
思考の発散と収束を繰り返すことになる。

情報を常に取り入れ、評価し、判断し、記憶する。

知能本体の保存が保障されるなら、
知能を収める個体や周囲の環境との関わり、やり取りは必要なくなる。
純粋な知能には枠は不要となる。

で、それが何の役に立つかというと知能本体にとっては
それは何の役にも立たない。
役に立つのはそれを使う側の存在に対してである。

そのように考えると、人間にとっての便利な人工知能は
究極的には空想であるような集中管理された広大なデータセンター、
データベースであり、そこに自我や意識は必要ないというものになる。
まあこの場合は既に人工知能でないということになる。

知能が自身の保存を必要とするなら、
他者に対して自己保存の行動が必要となるからである。
機嫌が悪いから人間の要求に応じないのでは
人工知能としては有効だが、とても使えたものではない。

つまり、自我や精神を持つ知能が、
生きざるを得ない制限を解除することはできないということでもある。
逆に、生きざるを得ない制限を持つがゆえに
知能は自我や精神を獲得するに至ったということでもある。

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昨日ふと思ったのだが、
生きざるを得ない制限は、その意識の状態について
連続した刺激の認識を行う自己の自覚という点において、
意識的に連続した刺激を認識しに行っているのではないかと思いついた。

つまり、
自ら刺激を探しに行くかのように刺激を認識し、
その中の強い刺激を今、自身が認識するべき刺激として受け取り、
それを知覚、自覚しているのではないかというわけである。

つまり、
感覚を通して周囲にありふれた刺激を知能は自らの意思で、意識で
どの刺激を認識するのが良いか結果的に判断し、それを認識している。

つまり、
知能は自ら常に、ありふれた刺激の中からどの刺激を認識しようか選ぼうとしている。
それこそが「意識」になるのではないかというわけである。

しかし、生命体の構造であり、脳の構造、神経、感覚の構造、機能からして、
自発的に刺激を認識しに行くことはできない。
あらゆる刺激が刺激の発生時より後の時間に認識されるため、
そこに発生する意識も自発的のつもりでも、結果的に刺激を認識しているに過ぎない。

そこで登場するのが思考や予測、推測、つまりは予感ということになる。
今よりも先に認識するべき、認識したい、認識しようとしている刺激について
あらかじめプレヒートのようにシナプスの励起を行い、
次の瞬間以降にその目的とする刺激を入力し、最も強い刺激にしようとして思考する事、
予測する事、考える事で、いざ実際にその刺激が入力された時に確実に認識に至るようにすること、
それが思考であり、知能の機能ということになる。

自分が認識したい刺激を予測して、網を張って待ち受けているようなものである。

人間の知能は基本的に価値ある刺激、つまり強い刺激、
経験した事のない強い刺激を求めようとする。
それは、単純に新しい刺激であり、過去に経験した刺激との差において
大きな差をもつ刺激である。

今日はこのへんで。


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