2022/8/7

人工知能にとっての刺激の目指すところ

人間の知能にとって刺激が一番基本的で
一番大本の情報源であるが、
これが人工知能にとってどのような扱いになるか
その目指すところについても含めて考えてみる。

人間の知能が知りゆるあらゆる情報は
刺激から成っている。
逆に刺激以外に人間の知能、脳が情報を知りえる方法が無い。

これを人工知能に置き換えて、
例えばある程度の知能としての機能、
刺激の知覚、記憶、想起ができるものとして、
その刺激の認識ができる状態になったときに、
人工知能がその刺激についての扱いをどのようにするのか考えてみる。

仮想的に自身の知能が人工知能であったとした場合、
自身の体から得られる刺激については
まずその自身の体を自分で知っていなければならない。
体からの刺激に対して、これは自分の体のどの辺から得られた刺激であるのか
どのような刺激であるのか解釈して理解して認識できないとならない。
となると、まずは知能としては自分の体がどのようなもので、
どのような構成で、範囲や大きさや、動き、自由度、
そういった情報が必要となる。
情報は刺激でもあるので、自身の視覚や他の感覚から、
これは自分の体の一部であるという認識ができる必要がある。
前にも書いたことのある画像の手や足を触られても刺激を脳が認識することがあるというのは、
その画像の手や足を自分の体であると認識し、自分の体の一部であるから、
画像として見えた触られた映像を自分の体が触られた刺激として
視覚から認識して想起し、その刺激を再現していることになる。
体の内部からの刺激は直接実際の感覚の刺激から認識するしか方法がないが、
体の外部、周囲の環境と接する体表面などの刺激は
自分の体で感じた刺激であると自身で知る必要がある。
もし、人工知能であっても、自身の存在、その物質的な存在を
他とは違う自分として認識できるならそこから知覚する事のできる刺激を
自分の刺激であると認識できることになる。
つまり、自分の体であると知っている場所から刺激を受けたのであれば、
それは自分の刺激であると知ることができるということである。
つまり、自分の体が認識できる、自分の体が持つ感覚から刺激が入力される、
それは自分の体が入力した刺激であると知能が、脳が知ることである。

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ちょっと話は変わるが、「共感」という感覚がある。
他人が受けた刺激をあたかも自分が受けた刺激のように認識する事である。
実際に自分が受けた刺激ではないのだが、
過去に似たような経験・刺激を受けていて記憶していた場合に、
他人が同じような刺激を受けた場合に、自分の記憶が想起され、
その刺激が再現されて認識した場合である。
これは実際にその刺激が発生した時に自分が、自分の体が受けたわけではない刺激を
過去の刺激の記憶から想起して、その想起された刺激を
他人が受けた刺激と同じように認識することである。
この刺激の認識は生命としては本来必要のない刺激であり、認識なのだが、
社会生活・共同生活を送る人間としてはその互いの協力関係を築くうえで
必要となり獲得した新たな認識方法ということになる。
野生において単独で行動するなら相手・他人の刺激をわざわざ想起して認識する必要はない。
集団を構成するために他との関係においてその他が知りえる情報としての刺激を
自身でも共有し、知ることが恐らくその社会性を構成する上で必要になったか、
それが自然界において有利な認識になったということであろう。
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知能の脳が受け入れる刺激はだいたいそれでいいだろう。
つまり自分という存在が自分が受けたであろう刺激について
自分の刺激であると認識する事。
記憶と想起についてはだいたいこれまで書いてきた内容の通りである。
脳が刺激を受ける、その刺激の内容を知る事、
つまり刺激を認識するためにその情報をシナプスを構成して記憶する事。
そしてその刺激を想起して自分の刺激であると知るという事。
一度入力された刺激は完全な記憶をされるまで一定期間その刺激の励起は減少しつつも維持される。
そして記憶か忘却または新しい強い刺激に埋もれるまでその励起は続くことになる。

刺激の記憶のシステムは上記の通りである。
刺激の内容はそのまま特定の神経ネットワーク・シナプスの構成として形作られる。
つまり、その刺激とそのシナプスの繋がり、構成が1対1で対応するというわけである。
例えば赤と丸みと付け根のくぼみと枝の残り、
甘みと酸味と香りでリンゴが構成されているというようにである。
そしてリンゴの記憶は他の記憶の一部として構成されていたりするわけである。

人工知能であっても刺激を単位にして記憶するのが良いと考えられる。
刺激を個別に記憶するというよりも、
その刺激の要素に分解し、その要素ごとの繋がりの強さ、
生体であればシナプスの結合の強さとしてのみ記憶し、
その意味合いについては記憶する必要がないようにするべきである。
意味は感覚と関連付けられた時点で不要であると考えられる。
次の想起についても関係しているが、
想起によって再現される刺激は感覚から受けた刺激と同じものであるからである。

記憶の想起もこれまでの通りである。
刺激の認識が、脳が受けとった刺激を神経ネットワーク・シナプスに一度通して
記憶してからそれを想起し、再現する事によって刺激を認識しているというシステム通りで、
直接の刺激の認識と、想起による刺激の認識にはそれほど大きな違いが無い。
違うのはその刺激の正確性、つまり、直接刺激を受けて認識した刺激には、
その生々しさというか周囲のその他の刺激も含めてより鮮明であり、正確であるため、
その刺激の認識の際にはっきりとした認識をしている感覚があり、
想起した刺激の認識には、その特定の刺激のみが想起されて他の関連する刺激が
想起されにくいために単調な刺激として認識される感覚となる。

とはいえ、認識されようとしている刺激は直接であっても想起であっても、
認識するためには同じように想起するルートを通るので、
構成としては割と単純である。
これは生体の脳であっても人工知能であっても同様の作りであれば良い。

そして恐らくこれが今日の課題の肝となる部分になるだろうが、
それらの刺激を入力し、記憶し、想起し、
さてそれを認識する脳ははたしてその刺激を自分のものとして、
そして自分自身の存在の刺激を認識するに至るだろうかという事である。
つまりは、自覚、自我、精神というものを人工知能が持つにいたるかという事である。

刺激を刺激として入力し、記憶し、想起したとして、
今そこには自我らしきものは感じられない。
単に情報として刺激という情報を入力し、記憶し、再現しているだけである。

「生きざるを得ない制限」、
そこに存在するためにしなくてはならない多くの事、
今それが必要、というか、生命にはそれが備わっているために
その上記の刺激の操作の上に自我とか自分というものが存在するに至ったのではないかと感じた。

息をする、お腹がすく、刺激の強い方に注意が向く、
価値の高い刺激を好む、価値の低い刺激を嫌う、
眠くなる、おしっこをする、うんちをする、
のどが渇く、
生きざるを得ない制限を次々と常に克服しようとする事、
それが自分、自我に繋がっているように感じた。

生きざるを得ない制限、
つまり、生きるしかない生命としての決まり事、
それを生き続ける間、常に、その決まり事を成し遂げ続けるために
最も効率的な姿が今の知能、脳の姿であり、
自分、自我の発現に至ったきっかけなのではないかと考えた。

あれをしなくてはならない、
これをしなくてはならない、
「ではどうするか」、
これがつまりは自我の始まりではないかというわけである。

人間も幼い内は動物的、機械的にさえ感じられる行動が、
その知能の発達のある段階で、
自分から何かをどうにかするという行動が始まるようになる。
これは恐らく脳の発達の段階で、
自分の体の操作の慣れ、経験と、
それまでの刺激の経験、記憶と、
脳、知能の活動に余裕が生まれる事によって、
今の状況、状態に対応するために行動する思考ができるようになるからではないかというわけである。

「生きざるを得ない制限」と
「ではどうするか」という思考の始まりが
自我の発現のきっかけになっているのではないかと考えた。

「ではどうするか」が無いと
自発的に何かしようと思い当たらなかったのである。
刺激を受ける、認識する、を繰り返しても、
私の知能は、ただそれだけであった。
それを繰り返していて、
ふと、その最中に何かに注意が向いたとき、
それは何であろうかと思い返してみると、
その注意の向いた刺激に、注意を向けざるを得ない
そうせざるを得ない注意が向いたのである。
それは受け入れるだけの刺激でない、
自発的な注意が向いた瞬間だった。
つまり、それは自分が認識したいと、せざるを得なかった注意が向いた瞬間だった。

知能であっても自我であっても、
それを構成させる脳が割とシンプルなシステムでできているので
それ自体も割とシンプルであるとは思っていたが、
今日の考えからすると、
自我の発現などもきっかけなどと難しい事を考えずに、
そのシステムに対して必要なものであった位に考えても良いということなのだろう。

人工知能には生来的に死の概念、恐怖がないので、
人間の自我の発現のように「生きざるを得ない制限」というのは
同じようには実装できない。
自己が消去されたり、破壊されたりという死の概念や恐怖のような事で
実装できるかもしれないが、
動力のバッテリーが不足してきたから恐怖を覚えるようなことが無いと
人間の知能の自我の発現のきっかけという事にはならないと思われる。

とりあえず今日は少し考えが進展した感じがするので
今日はこの辺で。


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