2022/8/5

刺激と価値と差と差別

人間の知能が何かに価値を見出す時
そこにはその知能が感じている刺激がある。
そしてその刺激の元をたどってみると、
どうやら刺激の意味するところの刺激の差が
価値に通じており、その価値の差において
人間が差別する理由にまで関係していると考えた。
今日はその辺りについて考えてみる。

今日の課題を考えていて、
悟りや世界の平和や思想の違いによる差別について考えていた時に、
知能としてその大本にあるものを考えていた時に、
動物はそういう差別とかを考えたり感じたりする事はあるのかとか、
そういう刺激は知能がどのようにして扱っているのか考えていると、
差別、つまり差を感じる刺激というのはどのような事であるのか
という事を考えればいいと思いついた。
知能が認識できるものが刺激であり、差別を感じるということ、
つまり差別を認識するということは、差別も刺激であるという事になる。
まあもちろん、差別として認識できるという事は、
差別自体に人間の知能が認識できる神経ネットワーク、シナプスが存在する事であり、
ということは差別も刺激であるということになる。

差別が刺激であるなら、その根本にある
差別の元となる2つ以上の対象があるわけであり、
それらを比べる必要がある。
とすれば、同じ種類の価値の意味を持っており、
それらを比較するところに差が生じることになる。

もちろん、この差は、
その知能がその対象ごとに差分として片方は良いモノ、価値の高いモノ、
一方は悪いモノ、価値の低いモノとして認識することになる。

知能がどちらを好むのかは考えるまでもなく
その知能が高い価値を持つと決めた方であり、
一方は低い価値、忌避するべき対象となる。

さて、
人間がその生活圏において価値のあるものを学ぶのは
幼い内であり、成長期であり、成人するまでである。
その後は学習するにおいても、それまでに学んだ価値、価値観が元となり、
それまでに経験した刺激、価値を変更するのは容易ではない。

2022/8/6 続き

特に自我を持った時点で、この価値観はほぼ固定されており、
逆に価値観が固定されることによって自我も確立されると言える。

人間が思う価値というものは、
ある対象、それが物でも状態でも現象でも出来事でも、
その対象から受ける刺激に対して付加される意味合いである。

対象から受ける刺激に対してどのように感じるかは
その知能が持っている価値観から画一的に導き出される。

昨日話そうとした内容は、
ある刺激が知能毎に異なる価値観が存在し、
その価値観毎にその刺激に対する価値が異なる。
そして、その知能毎に異なる刺激の価値は、
互いの知能が、その刺激に対する互いの評価の違い、価値の違いにおいて、
自身が設定した価値と異なる相手の価値の評価において、
その刺激の価値の差を感じる所に互いの理解が及ばないことに
差別を生む原因があり、
また、自身の評価する刺激の価値がその知能がその刺激に対して
思考する場合に、その評価、価値の意味が優先されるため、
他の者が評価した価値との間に差が生じる事になる。
このため、自己の設定した刺激の価値が優先される事は、
その自身の知能においてはプラスの価値であれば優越感であり、
マイナスの価値であれば劣等感に繋がることになる。
これは例えどれだけ訓練しようが、意味を理解しようが
避けようのない知能の機能であり、
その自己・自我の評価する価値と他人・他我の評価する価値との間に
価値の差、つまりは対象への差別が生じる事になる。

刺激に対する評価の違いは常に存在する事、その事を常に意識しているなら、
自己の評価する刺激の価値と、他人の評価する刺激の価値の間に
差が生じる事は常にあると認識することはできる。
例えその価値の差が、差別という認識であったとしても、
自身はそういう差別の意識・考え方を持っているということは
客観的に理解することはできる。
とはいえ、差別意識を持っている自分を良くも悪くも特別視することは
主観的に見てはやむを得ない事であり、
客観的に見て悪いということにはならない。もちろん良いわけでもないが。

しかし、刺激と価値、その評価した価値の差において差別が生じるという事は、
人間の知能の限界でもあり、生来持っている基本的な資質でもある。
それは人間が生命として存在する理由でもある、
生命として存続する事。それは環境への適応であり、
よりよく適応するために他より優れていようとする生命の根幹の本質でもある。

もちろん現在の人間の知能は、野生や本能から少し離れてしまってはいるが、
本来、他より優れている事は価値の高い事であるということは脳がそのように感じるように構成されているのである。
他人より走るのが早ければ優越感を得て、他人から羨ましがられ、社会から高い評価を得る。
他人より勉強ができれば優越感を得て、他人から羨ましがられ、社会から高い評価を得る。
他人より資産を持っていれば、容姿が優れていれば、歌うのが上手ければ、
絵が上手であれば、面白ければ、などなど他人から羨ましがられ、社会から高い評価を得る。
逆の面があれば、他人から疎まれ(うとまれ)、社会から低い評価を得る。

自分がその刺激に、価値に、自覚していなかったとしても、自分で気づかなかったとしても、
他人もその刺激に、価値に、気づくことが無かったとしても、
脳はその刺激を受けている。
刺激を受けていれば、その刺激は脳は知っているはずである。

そして後に、何かのきっかけで同じ様な刺激を受けた時、
それは改めて認識・自覚されることになる。

よく差別の無い世界を目指すという考え方をすることもあるが、
もし悪意ある差別をなくそうとするなら、それは
他人と比べる事も一切行うべきではないという事になってしまう。
スポーツも勉強も、思想、教義、資産、
とにかくあらゆる優劣をつけない社会を目指さないとならない。
善意のみの比較は絶対にと言っていい、人間の知能、脳にはすることができない。

それは先にも書いたこと、
その刺激の差を認識した時に必ず
優れていればうれしいという価値、劣っていれば悔しいという価値を認識することになるからである。
それは差別などを知るはずのない自我が発達する前の子供であっても
そのような反応を見る事ができるからである。
しかし、
それは周囲が評価した結果であるとも考えられる。
もし、何かにおいて優れている事に否定的な評価が与えられるのだとしたら、
もし劣っている事に肯定的な評価が与えられたとしたら、
普通では考えられないが、他人より優れている事を拒否し、
わざと劣っている表現をする人間が誕生するのではないか。
しかし、これは自己の一人の間だけの認識であり、
他人がもし全員同じ状態であったとしても、
その他人との差に再び差別の認識が生じるのではないか。

容姿も同じ、能力も同じ、思考も、社会も、環境も同じ、
経験も同じ、恐らくそれ以上に同じ境遇で成長でもしない限り、
その自己と他人の間に差別が生じないようにはできないように考えられる。

一卵性双生児で同じ環境で育った場合であってもその差はやがて生じるであろうが、
お互いの理解の度合いは私の勝手な想像ではあるが、
恐らく他のどの人間の組み合わせよりも限りなく差別の少ない関係であると考えられる。

人間社会全体がこの関係を目指すというわけにはいかないが、
もし理想があるならこの関係が最も近いということになる。

それを考えると、世界から差別が無くならないのは当然といえば当然である。

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私自身が持つ・自覚しているだけでも数多くの優越感と劣等感がある。
自分自身で差別だとは思っていなくとも、
他人より優れていると評価されればうれしいし、
劣っていると評価されれば悔しいと感じ、
その結果として他人を見下したり、羨ましがったりする。

自分自身で刺激や価値、差別について思考し、これだけの事を書いていてもである。

全てが同じでないのだから、差はあって当然である。

全ての差を受け入れることはできないし、人間の能力としてもそれは不可能である。

では、もし差別ある世界であったとしても、
互いを攻撃しない関係であれば良いのではないかという事になる。

人間社会で実現可能な差別ある世界というのは、
恐らくこの互いの違いを、互いに攻撃しあわない関係にする事であろうと考えられる。

いや、これも理想に過ぎないかな。
どのように考えても自分自身の中に優越感はやや抑えられるが、
劣等感が生じる。

自己評価の低さという面ではなく、
どれだけ考えて良さそうな事を考え、書き出したとしても、
自分自身に思考する事に対する不足、理解の不足、知識の不足を感じる。
まだ、もっと考えられるのではないか、
もっと真理となるべき考えに至れるのではないかと考えてしまう。

他の人よりは多く考えていて、
そういう点では自己満足的な優越感もあるか。
でもそれ以上に何かまだ欠けているような劣等感があって、
それについてまた考えることになっている。

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攻撃性というのは優越感の時にはほとんど生じないが、
劣等感に対しては表現の1つとして攻撃という方法が取られることがある。
自己に対しても、他人に対してもである。

ともすると人間の攻撃性は劣等感に対する表現ということになるかもしれない。
つまり、相手に劣っているために相手に攻撃的になるというわけである。
別に劣っていると自身が認めるわけではないが、
劣っている事を隠すために攻撃するということになる。

他の面での攻撃性というのは考えられるだろうか。
感情以外であれば、有利な立場から不利な弱い立場に対しての攻撃性というのはある。
これは、有利な立場にある優越感の再認識、
有利な立場の確立である。

そろそろ時間なので
個人的な考え方はとりあえず今日の所はここまでに。
社会的な集団的な攻撃性などはまた後に考えようかと思う。


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