2022/7/30-2022/7/31

選択する際の価値の判断

人間の知能が何かを決める時。
何かを実行する時、何かをあきらめる時、
何かを買う時、何かを食べる時、
右か左かを選ぶとき、
その時に選択する対象についての価値をどのように比較して
判断するのか考えてみる。

昨日今日と通販で2種類の買い物をしたのだが、
1つは趣味の品で1つは生活必需品の買い足しである。
趣味の品については以前から購入予定があったのだが、
個人的にまあまあ金額のする品だったので踏ん切りがつかないままでいた。
しかし、最近個人的な買い物をする機会自体が少なかったし、
物価が上昇しているなか価格の変化もしていなかったので
今後も買うかどうか悶々とするならばもう買ってしまおうと買う事にした。
もう1つは生活必需品でありストックの品の最後を開けて使い始めたので
もう予備もなかった事からそろそろ買おうかと思っていた品だった。

最初の趣味の品であり、やや高額な物を買おうとした時に
大きな決め手となったのは、
まず第一に使わなかったお金が貯まってきてやや金銭的な余裕があったこと、
第二に最近第一の項目の考えがあったためか、
以前から買おうと考えていた品を最近よくチェックするようになっていた事、
第三、これ以降ははっきりとした決め手ではないのだろうが、
私の過去の購入傾向からして、いつかは買うなら今買おうという考えや、
あれこれ悩む時間も楽しくもあるが、あまり長期間悩むのは時間がもったいないという考え、
最近時間的な余裕があったこと、品切れの心配、物価上昇の懸念、
次の生活必需品を買おうとしていたタイミングであること、
思いつく要素としてはこのような事である。

次に生活必需品についての品については、
大きな決め手になったのは、
ストックが尽きた事と、今後の物価上昇の懸念、
先の品を買うついでに一緒のタイミングで買ってしまおうという考え、
他のはっきりとした決め手でない要素としては、
ついでに買って受け取りを数日の間にまとめてしまおうという考え、
こちらの品は先の品があろうとなかろうと近いうちに買おうと考えていたので、
逆にこちらの品に合わせて趣味の品を買ったという考え方もできる。

今回の自分の例では、
選択としてはどちらの品も購入の予定があり、
一定の品の価値と貨幣の価値の比較は済んでおり、
後はいつ買うか、という踏ん切りのきっかけを待っていただけの状態だけであったと言える。
今考えてみると、生活必需品の購入を決めた事によって趣味の品も買ってしまおうと
考えたようにも思える。
ただ、最近個人的な買い物をしていなかったので
金銭的な余裕があったというのも決め手になったように思える。

価値の比較としては、
購入の品は所持している貨幣の価値よりも高い価値を持つという刺激を受けていた。
手に入れるという、品を所持するという目的、予測・想像において、
購入という手段、行動の実行を決定する要因として、
それらの価値比較が行われることになる。
どのような決定、決断、判断、選択についても同様であるが、
ある目的、予想、予測など、実際に行動する内容と、
その行動によって得るであろう刺激や結果という価値の比較として
その決定や判断、選択が行われることになる。

詳細に考えると、今回の対象の品となる認識が、
将来取得するという予測、予想において、
それらが目的となる欲求となる考えとなり、
それを目的として実行するための行動が取得であり、購入という
行動の手段として準備され、
まずその欲求とそれを達成するための行動とセットになった目的となる。
この時点ではまだ目的はすぐに達成されるための行動として実行されず、
目的のまま、まず認識されることになる。

このような目的は普段の生活や習慣においても次々と準備され
認識されることになり、活動における時間経過によって
周囲の環境の変化や自身の状態の変化において
都度その目的がその価値と行動の手間としての価値の比較後に実行されることになる。

目的を思いついたからすぐに実行されるわけではない。

日々の生活においてもその瞬間瞬間の必要に応じた目的が用意され、
それを実現するために行動が選択される。
すべての選択において、その目的を達成して得る価値は、
その目的を達成するための行動のコスト、手間や損失等と比較され、
その目的によって得られる予想される価値が高いと判断された場合に
その行動が実行されることになる。

生理現象等の緊急性の高い目的や価値と比べ、
何かを購入したり、趣味の行動をしたり、それこそこうして思考するなどの行動は、
緊急性という意味では刺激が弱いが、
得られる価値としての刺激としての意味は
普段の生活によって得られる目的や実行される行動に比べて
非常に高い刺激、価値、意味を持つ。

食足りて礼節を知る、という様に、
生命としての維持の心配が無くなって後に
そのような知性としての価値を得る目的や行動ができるようになるという事である。

人間の知能がその活動として、
多くの目的をタスクとして同時に持ち、
その目的の優先度に応じて目的の価値と、行動の手間・損失の価値を比較し続け、
その中で最高となった価値の行動を優先して実行する。
これの繰り返しが知能の普段の生命としての活動としての選択である。

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人間の知能として選択を行うというのは、
その選択の対象は常に価値ある対象同士である。
そしてその対象はその対象の最終系、つまり、
予測や予想によって、その対象となる目的が達成されたもしくは
達してしまう場合の最終的な価値、刺激であり、
それらの刺激を得るならば、どちらがよりその知能として好ましいかを
決める事が「選択」することである。

刺激は価値であるという考え方をしていると話したが、
つまりは選択というのはそのどの刺激を得るのが良いかを決める事であり、
選択に到達する前の段階の思考は、予測や予想としての仮の目的達成時の刺激を想定することであり、
刺激は単純に比較できるため、深く考えているような状態と言うのは、
これらの想定される刺激、価値をより正確に決めようとするために、
知能が思いつく限り、つまり関連しうる限りの価値を想起して思い出そうとすることである。
そして、その総和としての刺激は選択時に単純に天秤に乗せられるだけである。
だから、
人間が何か価値において選択しようとしているという行為、知能の行動は、
以外に単純なものであると言える。

そう、選択に悩んでいるのはその価値の比較において対象同士の価値が拮抗・均衡しているだけ
ということになる。

今日はこの辺で。


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