2022/7/24

思考の欲求

刺激を得る事を脳は欲している。

思考は想起

意識的に想起することが思考

思考は想起された刺激から成り立つ。

思考は言葉で表されその説明がその意味する所となる。

脳は刺激として情報を得てそれを処理する器官である。

脳は刺激を得てその情報を処理することを目的としている。

外部から刺激がないなら内部から想起して刺激を作り出せばよい。

想起による刺激によって思考が生まれた。

つまり、脳が刺激を受け取ろうとする器官であるために、
外部から刺激が受けられない状態でも刺激を受けようとした場合に、
想起によって記憶にあった刺激を再現するのが好都合であった。
そして、それは脳が刺激を受けようとする器官であることの働きとして、
刺激を受けようとする欲求という形で知能が形作られた。
その結果、脳は刺激を欲するものとして活動することになり、
その結果、記憶されていた刺激を想起することによって再現された刺激を、
連続して認識する活動が思考になった。

思考時の刺激の想起の連鎖は、
特定の刺激が想起され認識される場合において、
その瞬間の最も強い刺激であるために、それに連なった、
つまり、シナプスが形成された他の関連する神経細胞が持つ刺激の情報も
励起されることとなり、前の想起に続いて関連する内容が励起されて想起されることになる。
だから、都度極端に異なる刺激が想起されることはなく、
思考における文章においても、突然文章が変わるようなことはない。
また、意味の分からない刺激が連続して想起されることもない。
例えば、「ガラスの雲」とか、まったく言語にない「ガハゲドサユワ」とか、

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今日これを考えようとしたのは、

意識・無意識について考えていて、
その延長で脳が刺激をどのように扱っているかを考えてみた。
そして、刺激と価値の意味について考えた後、
その刺激によって思考がどのように行われているかを考え、
刺激の意味としての価値と、刺激本来の感覚の情報ということだけを考えてみた場合を比べ、
刺激があらゆるもとになっているなら、思考も刺激から成ると考えても良いだろうということになった。
そうすると、思考が言語の組み立てでできているなら、
言語に関する記憶としての刺激、文字とか音とか、から成ると考えて、
その刺激は今受けた刺激では思考に用いることができないように感じた。
ならば、思考は記憶にある刺激を想起することによって行われていると考え、
それならつじつまが合いそうな気がした。
想起はその次の想起に関連している刺激が想起されやすく、
であれば、思考として想起を連続して行い、文章を作りながら思考するなら、
その文章を成り立たせる刺激の連続についての意味、刺激の情報は、
そのまま連続する想起の中で、ある目的に沿った、つまり、
思考する際に答えとして最初に考える「もっともらしい答え」に近づけるために、
今ある手持ちの刺激の記憶の中から、その答えに近づくように
順に刺激を想起しながら文章を組み立て、答えとしての意味ある、
答えとしての情報としての刺激のまとまりとなった刺激を思考した結果として
認識しようとしているということになるのではないかと考えた。

という思考の結果、これは記録しておいた方が良いだろうと判断した。

今日の中心となる考え方は、

思考は想起からできているという事と、
脳は刺激を欲しているという事。

脳が刺激を欲しているという事は、
つまり、脳が誕生した経緯として、
感覚器官から刺激を受け取ってそれの意味をその個体が知り、
それを生かすことによってその後の自己保存に役立てようとして誕生したと考えられる。
ならば、脳は刺激を処理する器官であり、
要するにその刺激を様々な意味で捉えようとするのに好都合だったシステムが
脳神経とそれを繋ぐシナプスということになる。
この汎用性に優れたシステムはその後、神経ネットワークの構築によって
刺激と神経ネットワークの意味が1:1で関連するようになり、
その神経ネットワークの感覚器官から受けた刺激による励起でなく、
脳としての自身が行う励起によって想起するという事ができるようになったことで一変する。
つまり、想起することができるようになるということは、
今のこの瞬間に受けた刺激を、その過去の刺激との違いを比較できる事であり、
刺激の比較は判断する能力を持つことであり、
想起そのものは、自身に対しての想起においては自我の元となる存在となる。

まあつまり脳は刺激を処理する器官であるために
その働きには刺激が必要となる。
刺激は個体の周囲の環境の変化によって感覚器官から得られる刺激と、
脳内にある記憶された刺激を想起する事によって得られる刺激があり、
今回は思考とからめてこの想起による刺激から脳が刺激を欲するという考え方につなげた。

また、
これも今回の重要点であるのが、
そもそも刺激は意味のある・価値のある情報であるということである。
生命が誕生し、感覚器官から刺激を受け取るようになったのは、
その自己保存に有利となる情報として刺激を認識しようとした結果である。
だから、もともと刺激には重要な意味、重要な価値があると生命は知っているはずである。
ということは、刺激そのものは重要な意味を持つ価値ある存在であり、
それを得るということは価値を得るということでもあり、
つまり、このために脳が価値を得る事に対して欲求を持つことは自然の事になる。
とすれば、
刺激そのものは脳や知能、もちろん生命としての個体としても重要なモノであり、
それを得る事、知ること、もちろん保持するために覚える事も、
さらに、
想起して刺激を再現する事でさえ刺激を得る事になり、
さらに自身の脳内で新たな刺激を作り出すこと、つまり思考することによって
新たな神経ネットワーク、シナプスの結合を作り、
新たな刺激を作り出すこともできる事、それら全てが意味ある価値ある事になる。

であれば、脳が刺激に対して欲求を持つことになるのも当然ということになる。

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とすると、
人工知能においても、
刺激を知能における情報の最小単位とするなら、
外部の環境変化における刺激を入手する手段と、
記憶された刺激を想起する形で再現できる手段を用意し、
その刺激を自身で、つまり自身の知能が自身が入手した刺激であることを知ることが
できるようになることが必要である。

この3つ目の自分自身の刺激を自分自身で知ること、認識することができるようになるというのが、
まさに「意識」ということになる。

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意識とは
「連続した刺激の認識をしている個体としての自分を感じる事」
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後の課題となりそうなものが、
「意識」に対する「自己の存在」ということになる。

一応楽観的に考えるなら、
自分の周囲、外部からの刺激に対する認識と、
自己の内部から生じる刺激に対する刺激が違うものとして認識できるなら、
その刺激を認識する対象としての差の中に、
自己の存在が認識できると考えられる。
これは刺激の認識の中でも認識の機構として自動的に起こると思われる。
要するに刺激の生じる点において、自己の内と外の認識ができるなら、
その内に当たる部分が自分であるという刺激の認識の「差」において、
自己の境界を認識できると考えられるからである。
つまりこの刺激の認識の差は「自我」と「他我」の境界ということになる。

意識が「連続した刺激の認識をしている個体としての自分を感じる事」と
考えた理由の中にこの「認識をしている個体としての自分」つまり
「自我」を感じる事が意識には必要だと考えたのは、
「自我」と「他我」の差が生じることによって「自我」が得られ、
「自我」が「連続して刺激を認識」する事が「意識」であると考えたからである。

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今日の考えからすると
ますます知能というのは刺激ありきで
その刺激をどうにかして上手く使おうとした結果として生じたように感じる。
刺激の意味を理解し、記憶し、思い出して比較して、
今の行動につなげる。
単純に考えれば脳はこのために存在していると考えられる。
人間の知能にいたって、そこに思考する力が備わったのは、
体の構造が複雑になり、刺激の種類が増えたことによって
それを処理する脳がさらに容量が増え、
その後の大量の刺激の中に自分と他の差を知るに至った為に
自我の認識に至り、意識が発現したと考えられる。

今日はこの辺で。


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