2022/7/22
刺激と価値
体内で不足している栄養素は
体が意識することなく、
つまり意識するほど強くない刺激で欲するという研究があったらしい。
一般的に言うと、
体内で不足していた栄養素を
味覚を通さずに与えたとしても
脳が好ましいという感覚を得るというものである。
つまり、
何かが体に不足してくると、
自然とそれを欲する状態になっていて、
どのような経緯にしろ、
それを充足に充てると体が満足を感じるということになる。
実際これは脳でその栄養素が不足しているという刺激を受けて意識して行動されるものではないが、
体はそれでも何かが不足しているとその不足しているという情報を体に与えているということになる。
その刺激となる情報がどこからきているとかまだはっきりはしていないらしいが、
何となく何か特定の物が食べたくなる時というのはある。
しょっぱいものであったり、甘いものであったり、
時たま無性に炭酸飲料が飲みたくなるということもある。
そういう時は体はそれらが不足しているということになるのだろうか。
このケースだとそれらを意識している時点で少し意味が異なる気もする。
栄養素の例は、
ショ糖と人工甘味料、
水と高張液(体液より濃度の高い液体)
だった。
つまり、体の仕組みとして、
例えばそれぞれカロリー的なものと水分的なものが不足した状態で、
胃にそれぞれを直接与えた場合に、
ショ糖や水で脳が満足できるようになる仕組みがあるらしいということである。
意識的に行えない刺激の認識や、その刺激に対する価値を知覚する事ができないとしても、
知能は、それらも刺激としてやはり受け取っているということになる。
まあ普通に感覚器官があれば、当然と言えば当然なのだが、
今回はそれが直接感覚器官とは関係ない胃の中かそれ以降かの臓器において、
その不足していた物を体が得る事で満足に至るという少し変わった例となる。
普通に考えれば、五感を通してそれらを得ることが、
意識してその刺激を認識し、それに対して目的となり、実行して得て満足となるのだが、
今回はその意識するという部分が外されて、
直接臓器に与えられる場合でも脳が満足するということである。
ということは、意識される刺激でなくとも脳は満足するとも言えるし、
逆に意識されない不足という刺激が存在しているということにもなる。
意識されないから無意識という表現はしたくないので、
何とか別の表現を考えてみるが、
これまでの意識と無意識の関係から、
単純に意識されない刺激というのはことのほか多いのではないかという事である。
まあ普通に考えても五感というだけあって5種類の感覚があり、
静かにしていても周りから音が聞こえてくる。
気温で暑かったり寒かったりもするし、
眼を開ければ山のような刺激を受ける事になる。
意識がある瞬間において1つずつしか刺激を認識できないなら、
それ以外は全て認識外になってしまう。
とはいえ、
今回の話では、
認識外になった刺激もまったく意味がない価値がないというわけではなく、
刺激としては普通に脳まで到達しているのだろうという事が分かる。
であるなら、それらの刺激にも価値は与えられているはずであり、
その比較の結果として認識されないだけであり、
刺激には全てその評価としての価値は存在すると考えられるということになる。
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価値の別の見方について
刺激に対しての意味合いとして価値を設定すると考えているが、
そもそも価値というものは存在するのか今少し疑問に思った。
価値はその刺激の比較する基準として与えられる要素であるが、
刺激の強さがそのまま価値の意味を持つとも言える。
刺激の強さはその脳が持っているシナプス等の神経細胞同士のつながりの強さと多さによって
異なるものであり、刺激を強く受けるということは、価値が存在するからというよりも、
そもそも強い刺激を受けるように神経ネットワークができているとも言える。
であれば、その神経細胞同士の強いつながりこそがその刺激に対する価値であり、
別に価値そのものの意味は不要で、神経細胞のつながりの強さがそのままの意味になるのではないか。
つまり、
認識されやすい刺激は価値があるから認識されやすい刺激になるわけではなく、
価値は関係なく、元々強い刺激として認識されやすい状態であるので、
意識されやすいという事である。
そうすると脳や知能はもう少し簡単に考えることができるようになる。
価値や価値観がいらなくなり、
そもそもの神経ネットワークの繋がりの量がそのままその刺激の重要度を示す基準になることになる。
その刺激は自然と意識されやすい刺激であり、
意味のある刺激であり、思考の対象になる刺激であるというわけである。
これについてはまた考えるとしよう。
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