2022/7/22

思考と言葉の重要性

私が思考の際に用いるのは言葉である。
頭の中で自問自答をするのは
口には出さないが言葉である。
ならば、思考するのに言葉が必要となる。
さらに言えば、そこで用いる言葉は
私が知っている言葉だけである。
ならば、知らない言葉についての表現や
まだ存在しない考え方が言葉になっていないなら、
私はそれについて思考することができないということになる。
今回はこれについて考えてみる。

今日も例のごとく何か知能についてを考えようと
その題目を考えていた時に、ふと
もし自分が知らない知能についての事柄があったとしたら、
それを自分は表現できるか、考える事ができるのか?と思った。
例えば、意識や無意識というものがあったとして、
それの中間になる状態が存在したとしたら、
それを自分は考える事ができるのかと思ったわけだ。
また、もしそれに気づかずに思考していたとしたら、
そのままで正解にたどり着く事ができるのだろうかとも考えた。

特に現代は、中世や近代くらいの数多くの発見と比べ、
新発見となる要素の数が極めて少なくなっているという話を聞いたことがある。
まあ、逆に近代までが多くの不確かな知識しかなかった中で、
僅かずつ進む科学や学問の中で新発見されるたびに大きく学問が進んでいった
ということでもあるのだが、そういう点では、
現代に学問を行えるという事の方がありがたいということになるのだが。
しかし、それでも現代の学問があらゆる分野において完了したわけではなく、
まだまだ未知の部分は多い。
それについては専門性を高めた学問が多くなっているようだが、
どうもこれは一人の人間が扱える知識の量を超え始めた結果として
学問が専門性をより高めているのではないかと考えている。
つまり、一人の人間が扱える情報量が、これまでの発見によって知られるようになった
知識量が超え始めていて、
これまでに発見した知識を学ぶうちに寿命が足りなくなってきているのではないかというわけである。
つまり、新発見をする時間的余裕がなくなってきているのではないかというわけである。

ちょっと話がそれたが、
で何が言いたいかというと、
もう少し既存の学問を収めるという学びの時間以外に、
新発想となる既存の学問にとらわれない考え、思考をする必要がでてきているのではないかというわけである。
それは、新たな学問というわけではなく、既存の学問、用語に隠れた要素であってもいい。
今の学説と真逆の考えでも良い。
とにかく今までにない新たな発想、思考が必要になっているのではないかという事である。

で、話を戻して、
それには何が必要になるかというと、
既存の学問だけに収まらない新たな思考、新たな言葉が必要になるのではないかというわけである。
社会活動の中でも新しい用語、流行りの新しい用語が誕生することがある。
これらが流行るのは新しいというよりも、知能においてその新しい言葉が
新鮮であり、既存にない新しい概念が含まれているからではないかと考えられる。
つまり、新しい用語は新しい刺激であり、刺激はそのまま価値であるので、
流行って新しい用語には高い価値が含まれることになるというわけである。

自分自身の思考に用いる言葉であっても、
社会的に流行語になる言葉であっても、
その言葉に含まれる意味について考えると、
思考の発展や、思考に用いることができるようになる新しい概念は、
これもやはり言葉が元になっているのではないかと考えたわけである。

だから、私自身の思考においても、
新たな概念の発見も意識しながら思考をした方が良いと思われる。
まあもうこの時点で、「概念」や「意識」などという抽象的な言葉を使っているわけだが、
まだまだ自然界には多くの真理や新発見が残っているはずである。
私も知能の真理に到達できるようもう少し変わった思考を続けたいと考えている。

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そうそう、話がまとまったように感じるが、
表題にある内容については、
まずは、思考するにはそこで用いられる用語、言葉を多く知っている方が有利となる事。
これは、例えば同じ雨についても、雨、雷雨、驟雨、さみだれ、様々な表現ができる。
それぞれを知っていれば、それだけ雨について考えた時に複数の言葉を組み合わることで、
新たな思考する要素ができあがるということになり、つまり、これは、
要素が増える、刺激が増える、価値が増えるということになり、
思考する幅が増えるということになる。

だから、専門的な学問であっても、他の学問の中にでさえ新たな発見となる
思考中の言葉の組み合わせができる言葉が存在する可能性があるから、
できるだけ幅広い学問を、用語を知っておいて損はないということ。
もちろん、学問だけでなくても、趣味や遊びの中にでさえ言葉はあるし、
地方や国が違うだけでも知らなかったような表現があったりする。
先に言ったように、現時点ではその発見された用語が増えすぎて、
全てを知ることは恐らくできないが、自身が知るその数を増やそうとすることはできる。
どこに新しい言葉の組み合わせができるか分からない、つまりは
新しい思考ができるか分からないので、
もし新しい考えに行き詰まったり、停滞しているのであれば、
新たな用語を、分野を知るのも良いと考えられる。

新たな価値を得るためには、新たな刺激を作り出すしかない。
新たな刺激を得るためには、新たな概念を作り出すしかない。
新たな概念を得るためには、新たな思考を作り出すしかない。
新たな思考を得るためには、新たな言葉を作り出すしかない。
新たな言葉を得るためには、新たな言葉を組み合わせるしかない。

つまり、
新たな価値を得るためには、新たな言葉を組み合わせるしかない。
ということになる。

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あともう1つ重要な事がある。
それは、言葉の意味にとらわれ過ぎないということである。
学問であっても何であっても、その用語、専門用語というのはある。
そしてその用語、言葉には正確な表現でなされる意味というものがある。
まあ辞書をひいてその用語を調べたら、正しいと思われる意味が書いてあるということである。
しかし、この用語とその意味が正しいと考えられていても、
それらは絶対的に真理であるかは分かっていない。
というか、概念でしかないということである。
つまり、用語は決まっている、意味も決まっている、
だからといってそれが絶対ではない。真理であるかはわからないというわけである。
これはなぜかと言うと、決まっている用語であり、言葉であり、
決まった意味が示されていても、それらはあくまで概念であるというわけである。
その対象に対して、人間が用いる言葉で表した文字と意味であり、
それらは人間が扱いやすいように加工した情報であるというわけである。

実際の所、例えば無意識という言葉がある。
私も以前は無意識というものが存在し、それらは意識の下に隠れていて
良く分からない決定は無意識が行っていると思っていた。
というか、無意識という言葉がそういう意味を持っていると調べて覚えていたわけである。
でも、こうして考えている内に、
無意識というものは別に何かそういうモノがあるわけではなく、
087や088で述べたように認識された刺激以外の刺激が元になっており、
無意識というよりも、「意識されなかった刺激の集まり」の方が意味が通じる。
この「意識されなかった刺激の集まり」が何かをしているのかというと、
実際は何もしていない。
無意識に何かをしたという表現はあるが、
実際にその行動をするに至った経緯では意識は介在していたはずである。
意識は介在していたが、その後の行動の刺激の認識が行われず、
結果その行動に関しては意識されていなかったということである。
そしてまた、それは意識されなかった弱い刺激として
当知能は持っていたことになる。
まったく知らない、持ち合わせない刺激は想像も行動もできないが、
意識されなかっただけである刺激や想像、記憶は、意識されない状態でも
存在はしているということになる。

それを言うと、精神薄弱で事件を起こした場合も、
その事件に至るまでの実際の現場においてその行動の刺激が意識されなかったとしても、
それを実行するに至る刺激、予測、想像、は持っていたはずということになる。
実際、該当する知能が、それを意識できなかった、認識できなかったというだけで、
その刺激を実行するだけのその弱い刺激、行動するための目的は持っているということになる。
その知能が認識できないのだから、それをその知能が知ることができないということになり、
現代はその罪を罪として認められないということになっているが、
それに至る経緯としての環境としての罪は存在していると考えられる。

ちょっと話がそれたが、
無意識という塊があり、それが何かをしているというものではないというわけである。
意識についても意識という塊があり、それが全てを決めているというわけでもないというわけである。

意識はあくまで連続した刺激の認識のなかで、
それを認識する存在としての自分の存在を知ることであり、
無意識は意識で認識されないまでも脳までには到達していた刺激が、
弱い記憶の励起・想起という形で意識されるための用意をされている状態の
認識を・意識されるのを待機された刺激ということである。

つまり、
無意識は辞書に書かれた内容の通りの事ではないし、
私が考える無意識の通りでもないかもしれない。
誰かが考える無意識はまた違ったものであるかもしれないし、
そもそも意識があるから無意識もある、
という考えそのものが的外れの考えかもしれない可能性もあるというわけである。

とはいえ、この概念が意識して考えられる対象であることは間違いないのだから、
何かしらそこには刺激や価値としての存在があることには違いない。
であれば、無意識がある、無意識とはこうである、と決めつけないで、
最もふさわしい表現ができるように言葉を考えて組み合わせていくことが重要なのだろう。
そしてそれは柔軟であるべきだろう。


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