2022/7/18
意識的の対象と名称の必要性
意識的に何かを行うという事はどういうことであるか考えてみる。
また、そのついでで意識的に何かを認識する際に、
その認識する対象に名称が必要なのではないかという事について考えてみる。
何の気なしに対象を見ていて、
その見ている対象を認識する時、
それは何の気なしでも見ようとして見ていたとしても
意識的にその対象を認識しようとしている事には違いない。
その対象を見る、それ自体が意識的な行動であるからである。
そして、その時に考えたのだが、
人間の頭の中で何かを意識する時に、
その対象の根本的な情報は刺激なのであるが、
その情報を認識しようとする時には必ずその行為にしろ、
事象にしろ、物体にしろ、名称が必要になるということに気づいた。
つまり、例えば落ちている石を見ていたとする。
その行為とその石を対象とした行動は、
見るという行為と、その見る対象としての石と、
落ちている石を見ているという行動について、
それぞれを脳で認識するときには必ず、
それぞれに名称がついているというわけである。
視覚である対象を対象として認識する事。
それが「見る」という事であり、
逆に「見る」という事は視覚である対象の情報を知覚する事、
認識しようとすることと言える。
もし、この「見る」という言葉を持っていない知能が、
視覚で何らかの対象をとらえようとした時、
その知能はその対象をとらえる事はできるであろうが、
「見る」事を知ることはできない。
頭の中に入ってくる情報はその対象の情報のみで、
自分が見ている事について考える事ができないという事になる。
この行為、行動を他に説明しようとしてもできないことになるのだが、
もしここでこの行為、行動について名称を付けたなら
その行為は視覚で対象をとらえて、その情報を得る事と説明することができるようになる。
脳の構造として、感覚で得る事の出来る情報の最小単位は刺激であるが、
この情報を自身の脳、知能においても知覚、認識、意識、思考するためには、
その対象となる刺激に対しての名称が必要になるのではないかと考えたわけである。
名称自体は、脳においても1つの刺激となる情報であり、
その名称を知っているか、知らないかでその対象を認識したり思考したりが、
出来たり出来なかったりするわけだが、
これは、自分自身の脳、知能において、つまり、生命の個体としての
必要な情報というよりも、
他の知能、つまり、自分以外の個体に対して情報を共有するために必要となるために
名称を設けているのではないかと考えたわけである。
よく言語の世界において、その言語特有の表現や言葉があるという。
そして、その表現はその言語が使われている自然環境などに特有の現象であったりする。
これは他の地域では存在しない現象であったりするため、
説明しても意味が通じないということになる。
ただ、全ての言葉において世界のどこでも意味が通じる必要はなく、
その現象や対象が存在する地域でのみ意味が通じれば本来は良いのである。
しかし、人間の脳、知能として、この知っているか知らないかの差というものは、
それについて考えるか、考えられないかという差にもなるわけであり、
どうしても認識する対象であったり、表現であったり、思考する内容であったりについて
差が生じることになる。
広い意味で捉えると、世界が互いに理解しあえないのは当然ということになる。
そもそも知らない言葉を互いに持っているということであるので、
互いに説明できない考え方を持っているということになってしまう。
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少し話を戻して、
知能が意識的に何かに集中する場合、
その時の知能は何をしているのか、について考えてみる。
例えば今まさに私はこの表題にそった内容について考えているわけだが、
これは今まさに知能がその思考する内容について意識的に集中しているのである。
私の頭の中では、口語体の文章として、
その内容の意味がもっともらしい答えになるように言葉を選び、
それを頭の中で復唱しながら答えを出そうとしている。
例えを出したり、今この時の頭の中で認識したり刺激を知覚したり、
文章を組み立てたり、周りの刺激を受けようとしたり、
今、瞬間瞬間で思う事を書いたので、文章としてはぐちゃぐちゃであるが、
今、これが頭の中に浮かんだ内容そのものである。
その時に私の知能が思考した際に出てくるのは全てが言葉である。
脳内で認識できる対象は全て刺激が元になっているため、
音声の言語を組み立てながら頭の中で復唱しつつ思考しているのである。
つまり、私は音声の言葉を使って脳内の知能で思考しているのである。
思考した内容は音声の言葉を想起しているので実際に声を出して音声にしているわけではないが、
私についてはその思考の際には、脳内で音声にして思考している。
付け加えるならば、音声にしながら今、それを文章にして入力している。
恐らく、というか、まず間違いなく自分以外がこの文章を読んだとして、
私の今の思考した内容と同じ内容で理解が進んでいる事はないと思われる。
それぞれの持っている文字や意味、言葉の量、全てが違うからである。
それでも、共有する言葉や言語であれば、似たような意味では互いに通じる事はできているはずである。
まあこれが聴覚に障害を持っている場合に
その知能が音声を使って思考しているかどうかは分からない。
私自身がその状態になったことがないので理解のしようがないのである。
逆に聴覚に障害のある人の思考する内容を
まったく同じように私が理解することはできないはずである。
その人だけが知っている刺激があるからである。
それでもこうして言語にして文章にして記載すれば、
完全ではないにしろ互いに理解しあうことはできるはずである。
それを考えると、
人間の知能が、あらゆる対象について、
例えば目や鼻、口、顔、頭、手足、体、人間
、
喜怒哀楽、身振り、手振り、交際、交渉、言語、
文化、文明、国家、法律、信仰、神、宇宙、原子、電子、素粒子、
あらゆる物事・刺激に名称をつけることでそれを認識することができるようになり、
そのためにその対象について知能が思考することができるようになったと考えられるわけである。
そうそう、これまで書いてきた内容としても、
知らない事について考える事は出来ないという点からもそれは言えるわけである。
記憶にない出来事は夢に出てこない。
記憶にない考え方はできない。
であればこそ人間はあらゆる物事、事象について名称を付けようとしてきた。
新発見と言われるような事も、全てはその後、その後にそれを認識して思考できるように
名称を付ける、というわけである。
笑った顔を「笑顔」とすることで、
後に笑った時の顔を笑顔と表現することができる。
笑顔の記憶は、その関連する笑顔の状態、視覚であったり、他人の笑顔、
笑顔そのものの状態の情報、他の刺激と関連した情報として記憶し、
後に「笑顔」という言葉からそれらの関連する記憶を想起して再認識することができるようになるのである。
愛にしろ、憎悪にしろ、芸術、空想、神、無限、
それが存在するか存在しないかというのはどうでもよいと言えばどうでもよいのである。
それを、その言葉を知ることがその知能にとってのその対象の発現、
存在が生じることになり、それについて浅くとらえても、深く考えても、
それぞれの知能が持つそれぞれの対象の刺激や記憶ということになる。
それぞれの知能が、それぞれの刺激の記憶を持ち、
それぞれの知能が、その持ち合わせた刺激の記憶を組み合わせ、
既存の言葉であっても、新たな造語であっても、
それらを認識・理解しようとすることが
今の人間の知能を形成するに至った過程なのである。
恐らく今後も新たな言葉とともに新たな考え方、新たな意味、価値、刺激が
発現してくるはずである。
その組み合わせは数や質や量はまちまちであるが、
それを理解しあえた時にはその言葉は意味を持ち、共有する刺激、知識、記憶として
用いられることになるわけである。
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そう考えると、
思考する事というのは、
自身が持つ刺激を組み合わせて
新たな組み合わせの刺激に意味を、名称を与える事なのかもしれない。
実際には名称といっても、一言で表す言葉ではなく、
例えば私が意識について表現する時に、
今は意識とは
「連続した刺激の認識をしている個体としての自分を感じる事」
と表すように、手持ちの文字を組み合わせた意味ある言葉の塊としての名称という様にである。
要するに、思考し、表現する内容のイメージ、
「その内容を表現できる刺激の塊として、名称としての文章を組み上げる事」が
今回、私が考えている「思考する」ということの
表現であるというわけである。
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