2022/7/17
思考する状態と思考について
認識する時の刺激は
その刺激が自分の刺激であることを分かった上で認識する必要がある。
目をつぶり、周囲の音や風、温度などの感覚を受けていると、
それらの刺激を認識する際に、その刺激が自分が受けている刺激であると
理解しないと刺激として認識していないように感じた。
この時、「悟り」について考えようとしていたのだが、
この時、この刺激をどうやったら意識しないようにできるのか考えていた時に、
それに相反する形で刺激を認識したという事は、
逆にその刺激を意識するという事は、この刺激は自分が受けている刺激だと
分かっている、分かったから認識に至っているのではないかと考えた。
刺激を意識したから認識したとも言えるのだが、
という事は、刺激を認識するにはその刺激を意識する必要がある、
という事になるのではないかというわけである。
この考え方は、これまでの意識についての考え方として、
意識とは「連続した刺激の認識をしている個体としての自分を感じる事」
と共通するわけだが、
意識が連続する刺激を認識するのに必要なのは、
やはり自分という存在が不可欠ということになる。
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思考する状態の仮定として、
思考していると感じている状態は、
脳の状態・ステータスとして
1つの「思考しているという刺激」を保った状態にあるのではないかと考えた。
だから一定時間の間、思考する状態を維持すると、
その刺激による慣れにより思考している状態が維持できなくなる。
つまり、思考する状態という刺激に慣れてしまうわけである。
この思考の状態の慣れは、一般的には「考える事に疲れた」と表現されるのだが、
実際は思考しているという刺激に慣れたためではないかというわけである。
普段からあれこれ考えている中で、
あまり疲れたと思う事は少ないが、
特に集中して考えていると、何となく頭が疲れたようなイメージになることはある。
実際、考え事をして疲れたと感じた時に、
頭の中の脳の形が分かるようにイメージできたり、
脳全体が熱を持ったように感じることはあった。
ん?ということは単純に疲れているだけなのかもしれない。
確か脳細胞の発火のNa-Kのイオン交換に相当のエネルギー消費をしているらしいし、
熱を持ったり、その温度変化で形が分かるようになるというのも考えられる。
しかし、単純に思考している・考えているという状態というのは、
単なる刺激の認識や想起だけでなく、ある一定期間、一定時間の間、維持される必要がある。
これは上の内容の続きで、刺激に集中するという考えの中で、
思考するという状態は、ある同じ関連した内容の刺激を次々と想起する必要があり、
これが中断されるということは、必要ない刺激を認識することになり、
思考が中断されてしまうことになる。
別の刺激が認識されることは、正確な思考という点で不利であり、
思考している内容に関係ない刺激はできるだけ認識したくないはずである。
であれば、集中するということは、この何らかの思考する状態を維持し、
思考に関係ない他の刺激をできるだけ価値の低い、認識されないような刺激として
処理できるようにする必要があるのではないかと考えたわけである。
であれば、脳の1つの状態としてそのような思考を維持するというような刺激があれば
都合がよいのではないかと考えたのである。
集中した時にゾーンに入るとか、
走馬灯とか、何か脳が極限に集中した時には、
その状態となるきっかけと、状態が存在するのではないかと考えたわけである。
考え事をしていた時に話しかけられた事に気が付かなかったというのは、
本来であれば話しかけられたという聴覚の感覚における刺激は、
他の状態よりも優先的に認識されて、その事に気づくはずである。
しかし、考え事をしていた時に話しかけられたことに気が付かなかったということは、
聴覚で受けていた音の刺激が、他の刺激に優先されなかったということである。
この場合、考え事をしていたということは、記憶にあった刺激を想起することになっているはずだが、
この想起された刺激よりも、聴覚で受けた刺激の価値が低かったということになる。
つまり、思考している際の想起された刺激が他の刺激に優先したということである。
普通に考えれば、これは通常の生命活動ではありえないことである。
環境の変化による刺激は生命維持の点からすれば何よりも重要であるはずである。
この刺激を抑えてまで、想起した刺激を優先して認識するということは、
その現状がよほど安定的で安心できる状態であると認識、意識している必要がある。
生命として、常に緊張しているというわけにはいかないが、
特に人間の知能の様に意識的に、意図的に思考する状態になろうとすることは、
他の生命ではほとんど考えられない事である(ただ、一部の類人猿ではこれはあるかもしれない)。
何か考える事によって得られるメリットがあり、
それが生命の存続に有利に働いたということになる。
そうすると、思考の元になっているのは予測であり、
予測は想起の試行錯誤でもある。
イメージトレーニングの様な考え方が一番近いか。
つまり、仮に~する、仮に~がある、という事を記憶にある刺激を想起し、
それを様々に組み合わせる事で未来の予測として、認識し、
実際にそれ、またはそれに近い出来事、事象が起こった場合に
他に先だって行動を起こせること、思い出して考えられる事が
何より有利に効果的だったということになるだろうか。
それが思考する事として知能に備わっていったということになるだろうか。
単純な生命維持だけでなく、
学問などにおいて思考する場合も、
結果的に、
知能が価値を得るために思考するとも言える。
知能を持つ個体が、価値を得るために思考する。
知能を持つ個体が、価値の高い刺激を認識するために思考する。
知能を持つ個体が、今後現れるかもしれない価値の高い刺激を認識したいがために、
思考という過去の刺激の記憶の中から、新たな刺激の組み合わせとして、
今後生じるかもしれない状況にたいして類推した状態の刺激の組み合わせを
予測として認識してそれを思考した結果として、予測として記憶しておくこと。
これが思考であるということになる。
平たく言うと、
未来に価値の高い刺激が認識したいから、
あらかじめ今ある手持ちの刺激の中から
似たような組み合わせの刺激を作っておいて、
それを先に認識して覚えておいて備えておこう。
ということになる。
まあそれを有利に進めたいから、
先にいろいろな事を勉強しておいて、
手持ちの刺激=記憶=知識を増やしておこうということになる。
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でも、やはり考えようとして
想起する方の刺激に意識を向けるということは自分でもしている。
それをしないでいるとやはり周囲の環境から受ける刺激の方をどうしても
優先して認識してしまう。
だから、考えようとしていることは間違いないらしい。
つまり、考えようとしている状態に自分でなろうと意識している。
つまり、考える状態を維持しようとしている。
生命機能としての能力の限界として
思考する状態が長時間維持できないのか、
思考する状態としての刺激に慣れてしまって思考する状態が長時間維持できないのか、
現状ではどちらとも言えない。
よほど思考するのに良い環境にあったとしても、
思考する状態を延々と続けることはできない。
シンプルに考えると生命的な能力の限界ということになるか。
結局思考し続けるにしても、
周囲から受ける刺激は多いし、
体内からも空腹や生理的な現象の刺激は次々と受けるわけだし。
でも人工知能ならその条件をとっぱらって
延々と思考することができるということになるな。
さすがに「思考の状態の刺激に慣れてきた」ので
さすがに「思考に疲れてきた」ので
今日はこの辺で。
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