2022/7/9
犯罪心理
安倍元首相が暗殺により亡くなり
ふと思いついた犯罪心理。
ネット上では未だに犯罪心理はよく分かっていない事が多く、
犯罪心理学者が殺人を犯していることもあるなど
その内容については現在はその学問としては
入口で立ち止まっている位のものである事が分かった。
今の私の知能でどのくらいまで考える事ができるか試してみる。
まず前置きとして今回は元首相暗殺の事件を例に挙げて考えてみる。
そして私は事件の内容は概略程度で詳しい内容までは知らない。
この状態で考えてみる。
第一に考えてみる事は、
なぜ今回、この行動を決定し、実行したかである。
人間の知能が行動を実行する時に考えている事は、
常に自分にとって価値があるかどうかという事である。
犯罪でも、普段の生活の行動でも、自分にとって価値があるから行うのである。
誰かの為、社会の為というのは見せかけで、それによって
自分が価値を得るから行動するのである。
また、価値=感覚による刺激であるため、
何らかの行動は常に何らかの感覚による刺激を得るためと言い換える事もできる。
今回の事件では政治的なしがらみは無く、個人的な対象に対する不満から行動したと
ニュースなどで書かれているが、この状態で不満を解消するために実行するのであれば、
そこで得られるのは自己満足等の主観的な価値、主観的な刺激である。
そして、その行動の実行に対するのは、
行動のスレッショルド、しきい値(閾値)となる相対する考えである。
例えば保身や刑罰への対処、自己への批判、周囲への迷惑、家族への迷惑、社会的な迷惑などである。
この価値を犯罪実行の価値が上回れば実行を決める事になるのだが、
実際、社会に属するほとんどの人は、犯罪行動によって得られる主観的な自己が得る価値よりも、
この犯罪行動の閾値が高くなっているため、実際に実行されることは少ない。
実際に実行が決定されると、ほとんどの場合、このまま実行されることになるのだが、
最初の価値判断の時点でよほどマイナス価値の閾値が下がっていない限り、
犯罪によって得られる主観的なプラス価値はマイナス価値を超える事は無いし、
後からこれが覆されることもほとんどない。
そして、主観的な犯罪実行によって得られるプラス価値は
ある程度の価値の高さになった後で大きく変化することはない。
これは、主観的な価値は、その知能が持つ価値観が大きく変わらない限り、
その価値の評価は変化しないためであり、
犯罪を実行するかしないかの価値を設定した後は、すでにその価値観による価値の設定が済んだ後であり、
後からその価値を変更する場合は、価値観から先に変更する必要があるというわけである。
そして、ある程度の年齢が進んだ後に大きく価値観を変化させることは少なく、
最初に決まった価値観は後々も同じような価値観で生活することになるというわけである。
となると、犯罪行動の実行には何が要因となるかについて考えると、
犯罪行動のこのマイナス価値の閾値が下がり、
犯罪行動の主観的な価値がこの犯罪行動のマイナス価値を超えることで実行がされるという事になる。
マイナス価値も価値観によってきめられているので、
後からも変わることが無いかというと同じ事になるのだが、
実際は、このマイナス価値の閾値はまだ経験していない予想による価値の設定であり、
また、実行するかどうかを決める時の実行しないという決定の要因となる価値の為、
実際には実行しようとしている考えの中でのしない方が良いだろうというブレーキの役目ではあるが、
あくまでここでは実行した後のマイナス価値であり、
実行するかしないかの決定に使われた後はあまり役に立たないマイナス価値なのである。
つまり、一度実行すると決めた場合は、このマイナス価値は、
そういうマイナス価値もあるが実行する、という考えに至っており、
この時点ではもうあまり価値としての意味は小さくなっている。
よく自殺や脅迫や未遂の時点で、思いとどまらせるために、
その実行の決行に相対する価値の事を考えさせるという事がある。
例えば友人の事であったり、家族の事であったり、故郷の事であったり、
これはその近しい人や環境に対する影響を考えさせることで、
そのマイナス価値を再認識させて行動の実行の決断前にマイナス価値を大きくさせて
再認識させようとしているわけである。
で、このマイナス価値の要因を閾値として下げさせる効果があるのが、
疲労やストレス、脅迫などの追い込みや誘導、要するに身体的か心理的な疲労か、
そそのかすといったような心理的な価値の誘導である。
一言でいえば、「後はどうでもいい」と思わせる事である。
それを言うと、実際、犯罪であろうが、普段の生活であろうが、
期待する価値は違えども、行動の実行においては、
「後はどうでもいい」と考えているようにも思える。
つまり、普段の生活で行っている行動も、
行動によって得られる期待する価値というものはあるが、
これはあくまで期待する期待値であって、経験上ほぼ間違いなく得られるであろう価値ではあるが、
実際に行動している際は、その価値が得られるだろうかというのはもう既に考えていない状態にある。
つまり、行動実行中は、その価値の大小や損得ではなく、
もう行動に集中してしまっているということである。
つまり、普段の社会生活で行っている行動も、
行動中は後の事は考えていないというわけである。
これは犯罪の行動においても同じことが言えて、
犯罪行動中に後の事は考えていないというわけである。
その考えであれば、別に犯罪ではなくても道徳的な問題であっても
実際に行動してしまえば後に引けない状態になっているということであり、
罠に誘うなら、まだ迷っている状態であれば、実際に当事者として事を起こしてしまえば、
後から引き返すということは難しいということになる。
あくまで迷っているという事が重要ではある。
最初からその考えがないのに当事者にしても、この場合はほとんどが立ち止まるか引き返すことになる。
となると犯罪などの行動を起こしやすい状態にあるのは、
自分以外の周囲や環境との関わり合いが少なく、
孤独にある存在は効果が高いことになる。
つまり、犯罪を起こしてもしがらみが少なければその行動のマイナス価値は低いということである。
逆に言えば、普段から多くの対象と関わり合いの多い者は犯罪行動は起こしにくいということになる。
ただし、これは個人的な価値観として周囲との関わりあいに或る程度の高い価値を設定している場合であり、
最初から関わり合いが多くとも孤独でいるような感じ方をする価値観の場合は、
周囲との関わり合いに低い価値しか設定しないため、その限りではない。
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そうすると、あらゆる行動の決定において、
知能がその行動を決定し実行する直前においては、
必ず実行するか、実行しないかの価値判断を行っているということになる。
それは普段の生活の習慣の行動であっても、犯罪の実行の行動であっても同じで、
その行動の実行を決定するかどうかを決める際に価値判断を行っているという事である。
習慣の行動であれば、過去の経験から想起される期待される価値がはっきりしていて高く、
期待されるマイナス価値が低いために価値判断は容易に実行可の判断になる。
人間が何か行動を起こす、実行するのに対して、
犯罪だけ特別ということはない。
犯罪や道徳としての善悪というものは、世界の真理ではなく人間が決めたものであるためで、
人間が共通して持っているというだけの善悪であり、
それは犯罪は行わないのがプラス価値であり、行うのがマイナス価値であるというだけである。
それは普段の行動においても意識されることは無くても
道路わきにゴミを捨てた、タバコの吸い殻を捨てた、産業廃棄物を山に捨てた、
ゴミを分別せずに捨てた、他人を殺した、モノを盗んだ、
捨ててあったゴミを拾ってゴミ箱へ捨てた、
市民一斉清掃で街の美化イベントに参加した、
溺れている人を助けた、困っている人たちに寄付をした、
など、事の大小はあれども、人間が決めた善悪である。
また、
自分の顔を洗った、歯を磨いた、というのは善悪ではなくとも、
社会通念として、身だしなみや常識と言われるような習慣において
良いことであるとされており、
これを行わない状態でいれば、悪いことであると考えられているというわけである。
基本的に知能は判断として、価値判断のみしか行えない。
これは判断する対象が、感覚で得られるものしか対象にならないためであり、
基本的に五感で感じられる感覚しか判断に用いられることはない。
これも、感覚で得られた刺激のみが脳で用いる事の出来る情報であり、
記憶して後から想起して用いる事ができるのも、この刺激のみであるという事による。
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多くの種類の価値を知るという事
多くの種類の価値を知るという事は、
あらゆる対象において、様々な価値のモノの見方ができるということである。
これは行動の実行の可否を決める際も同じことが言えて、
多くの物事に対する価値を知るという事が
例えば犯罪心理として犯罪を防ぐために用いられる最も良い効果が得られると考えられる。
犯罪を実行するかどうかはもうその時点では後に残されているのは価値判断のみであるので、
その前段階として、プラスの価値とマイナスの価値を多く情報として持つことで、
その判断を安易に行わせないようにするという意味である。
まあそれを言うと、これまで書いてきた差別などの思考も、
その差別される対象についての多くのモノの見方、多くの価値を知ることが
正しいと思われる判断につながる最も有用な情報であるという事が言える。
つまり、客観的な多くの視点による多くの価値のモノの捉え方ができる事、
それが重要であるということになる。
これは、犯罪についても同様であり、差別についても同様であり、
普段の生活においても、常識や、善悪の考えについても同じことが言える。
それはひいては人工知能についても言える事である。
今日はこの辺で。
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