2022/6/26
差別と価値
150である程度の差別の発生要因については考えてみた。
差別の元になっているのは、自身の保身、自身の存在の価値の向上の為に
何らかの対象における要素についての価値を保有していると対外的に表現する行為に対して
付随する形で相対する要素が価値の低いものであるとみなし、そのように価値を設定して
表現することで、相対的に自身が持つ要素の価値を高く見せようとする事である。
これが差別の根本原因になっていると考えたわけである。
つまり、自分が高い価値を持っていなくとも、相手の価値を下げれば相対的に
自分の価値が高く見えるというわけである。
差別にしても、同様の行為でいえばいじめ等も同じ事であると考えられる。
現時点では私の意見としては、倫理や社会生活という点においては、
差別は良いか悪いかといえば悪いものであると考えているが、
差別の発生原因を考えてみるとその存在自体は恐らくなくなるものではないと考えている。
価値を比較する事は人間の知能が唯一行う事の出来る判断であり、
であるなら2つの対象において価値の差を生じさせることは止めるわけにはいかないのである。
そして、150で述べた「差別」と比較できるであろう要素の「容認」「客観」
ついでに新たに付け加えるなら「許容」を相対する価値としても、
「(差別との)共存」が何とか見いだせる妥協点ということしか今は思いつかない。
では、もう少し価値や価値観という見方から差別の元になっている価値の差について
考えてみる事にする。
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人間の知能が、記憶や思考、その生命としての活動を行うに当たり、
その全ての判断の根源にしているのは感覚による刺激である。
感覚による刺激の強さに対して知能は価値という意味を付け加え、
記憶することで、思考や判断において想起して用いる要素となる。
その生命活動の初期においては刺激が優先であり、
その刺激に対する時間的な経過による反応の結果に対して価値が設定され記憶されるものである。
つまり、刺激を受けて、その結果としてどのような事が起きたか、
どのような結果になったかについて知能は良いか悪いかなどの価値を設定して記憶するのである。
一方で、現代の人間などの知能が発達した生命活動においては、
刺激を受けてからその価値を設定するよりも、
先に価値を知ってから後に実際に刺激を受けて価値を修正することが多い。
これは教育や環境によって先入観や教えられる価値観といったものを先に覚えるということである。
つまり、人間の知能がその刺激に対する価値を扱うのは、
実際に刺激を経験するより先に、価値を先に覚える事が多いというわけである。
あらかじめその対象の価値が良くて大きい価値があると教えればそうなるし、
悪くて低い価値であると教えればそうなるというわけである。
成長する過程において学ぶ価値、価値観が後の行動に対して非常に大きな影響を与えるのは
こういう事である。
もしこの時点で、差別を促すような価値観を学べば、以降もその差別については許容するようになるはずである。
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何か2つの相対する対象において、
人間の知能がそれを認識する場合、
その刺激に対する価値を設定した時点で、
必ず比較されることは当然行われることであり、
止める事は出来ない。
であれば、もうこの時点で記憶されるその2つの相対する対象は、
価値の差が生じている事になり、
後にどちらかの対象が想起された場合、必ず相対する対象についても
関連して想起される対象になる。
ただし、この事について良いか悪いかという判断はできない。
人間の知能はそうせざるを得ないのである。
一見相対する対象が存在しないように見えても、
その対象とそれ以外という集合が存在し得るのである。
つまり、価値のある対象と全てのそれ以外という対象である。
人間の知能はその認識も判断も全て刺激、価値によって行われるものなので
差別の存在、継続も、刺激と価値と価値観によって構成される知能であるがゆえに
致し方ないものであるのかもしれない。
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まあ致し方ないだけでは元もこうもないので、
150で書いている容認・客観・寛容の辺りの価値や価値観から
差別について何か新たな考え方ができないか考えてみる。
差別を特別なモノと考える事自体が現時点では対象としての価値の差を生じさせている
原因にもしているのだが、今はご容赦を。
現実問題として差別にとっての価値というのは、
ある人間からある人間に対しての自身の価値観からその相手の人間を見た場合に
その相手の所持する要因に対しての価値を設定した場合に、
自身の持つ価値観、価値基準から低い価値であると判断した場合に、
自身がその要因に対して持っている自身を評価した価値、価値観から自分が高い価値を持ち、
相手が低い価値を持っているために見下す。
そういう原因から差別になるということである。
もしこれが、相手の方が高い価値を持っていれば、ねたみや卑屈や劣等感などの
価値が反転した差別になる。
この場合は自分に対する差別にもなるというわけでもある。
しかし、こういう事が起こるのは当然として、
この場合に判断を行う前に容認や客観や寛容の入る余地はないのか考えてみる。
自分と相手の共通する要素に対しての価値の比較が行われる前に
容認・客観・寛容を行う事ができないかどうかというわけである。
通常ではもう相手を認識した時点で、その容姿や振る舞い、声の抑揚、等の刺激を受ける事になる。
そうすればこの時点で自分が持つ価値観、価値基準で初対面の第一印象が決まってしまう。
この第一印象は、すでに価値そのものである。
自分との比較が行われて価値に差が生じる。
差別の考えからすれば既に手遅れである。
認識する前の時点で、誰かに相対する場合の心構えとして、
様々な人がいると知っておく事ならどうだろう。
これには自分も含む事が重要である。
ほぼ全ての比較というのは、自分の価値、価値観が元になり、
自分の価値に相対する対象としての価値と自分の持つ価値が比較された場合に
価値の差となり、差別になるわけであるから、
自分の価値も含めた価値、価値観として相対する対象の価値も
様々な価値の1つであると先に知っておけば良いのではないかというわけである。
問題となるのは、この考え方、概念を年齢の若いうちから教え続けて経験させる必要がある
という事である。
一般的には学校における教師が、頭ごなしに差別は悪いものです、止めましょうと言っても、
その教師が自分自身にも何らかの対象にも差別の意識を持っている時点でその教育は無意味になってしまう。
間違いなく早いには越したことがないが、
ある程度年齢がいったほうが理解力や経験量も増える。
とはいえ学習する期間はある程度長い間あるので、
どこかの時点で自分も相手も含めた様々な対象があるという事を学べればどうにかなりそうな気もする。
今思った問題点は、価値判断を重視すると、
善悪の対象に対しても容認・客観・許容が適応されてしまうことになりそうである。
善も居る、悪も居る、そういう事もあると理解することになってしまうというわけである。
それはそれでよろしくない。
再現できそうな落しどころとしては、
ある考え方に対して都度、様々な価値、価値観があることを知って後に価値判断する事だろうか。
これならばある程度の年齢が高くなってからでも、学ぶことはできるし、
多くの経験からその様々な対象を知っているという点でも有利である。
時間なので今日はこの辺で。
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