2022/6/25

差別が生じる価値

人間の知能の中で差別は思考の中でも悪いものとして扱われる。
これは特に現代における考え方であり、
その差別という考え方が生じる意味や理由、原因はどこにあるのか
ということについては考えられることが少ない。
教育の現場でも差別は悪いものとして教えられるが、
その発端となる理由や原因についてまで考えられる事は少ない。
今回は差別が生じる意味として、差別が生じる元となる原因や理由と価値に
関する関係について考えてみる。

まずは差別というものがどういうものであるのか考えてみる。
一般的には差別は社会の中における多数派が少数派に対して行う扱い方というか
見方と言う事ができる。
社会の中で多数派となった考え方は常識や通念といったものとして共有され、
それ以外は少数派となり、非常識といった見方をされる。
この時、多数派の考え方や意見は、社会の中において、最も価値があるものとして
共有化されることでその意見を持つ者たちの価値の保全をすることになる。
そして、この社会の中における最も高い価値を意見として持つことは、
その社会の中において価値ある存在であると認識できる、認識されることになる。
逆に少数派の考え方や意見は、社会の中における多数派によって価値の低い考え方、見方として
扱われ、それを持つ少数派を価値の低い存在として扱うことになる。
この時点で単純に社会における価値の高低という存在ができて、
それらを持つ多数派と少数派において意識することのない差別は生じている事になる。

多数派が持つ価値というのは必ずしも正しい価値を持つわけではない。
多数である事自体に価値が生じる事になる。
また、少数派が持つ価値も必ずしも間違っている価値を持つわけではない。
少数であるが故に全体の中での価値が低いわけである。
そして少数派でも多数派でもそれらの考え方の価値は正しくも間違っている事も無い。
もし、その考え方や意見を正確に判断できる存在があるとしたら、
それは恐らく人間でも人工知能でもない。
知能とは異なる別の何かを持つ存在である。
つまり人間の想像できない何かである。
これは神でもない、とにかく価値を価値として扱う事のない存在である。

差別は社会に限らず、集合であればどこにでも発生しうる。
通常は多数と少数の集合が必要になるが、最低の集団の要素の数は2である。
互いに互いを差別する状態である。
一般的に異なる別々の意見はその考える向きの違いによってその価値の方向が異なり、
一方から見ると別の意見の価値は自身の意見の向きが進めば進むほど離れ、
自身の意見の価値の高さの向きに反比例して、
価値が低いとみなされることになるわけである。

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ではその本質的な考え方の価値の部分について考えてみる。
これはあらかじめ考えていたのでまとめを述べるが、
生物として本質的に同種族の中において優れた存在でいる事は、
自己保存の観点から有利に働く。
つまり、同じ種の中で優れていると周囲に見せつける事は、
自己の遺伝子を保存するという点において有利に働くということである。
これは人間に限らず、どのような生物においても、
自然界においては強いか賢い者が生き残り、その種を存続させることになる。
つまり、自然界における生命の価値は、同種の他より優れている事である。
他より優れている事が価値であるならば、
それはその立場の違いによって価値の高低が生じる事になる。
優れている事が価値が高く、劣っている事が価値が低いというわけである。

人間以外の生命においては単純にその価値は力や賢さの優劣によって決まり、
その優劣は実際に対決することによって決する事が多い。
しかし、人間の価値は、優劣ではなくほとんどが多数か少数かによって決まる。
実際に存在している人間の差別は全てと言ってもいいくらいである。

この価値の違いを多数か少数かによって隔てることが差別につながるのだが、
差別をしている側の人間でさえ差別されることにもなる。
差別をしないでいようとする多数から比べて、
差別をする側の少数でさえ差別されることにもなる。
つまり、あらゆる価値の比較が行われる対象において
あらゆる差別が生じる可能性があるということでもある。

しかし、知能において対象を認識する際にその対象の価値の違いが生じるのは当然であり、
価値の違い自体をなくすことはできない。
だからといって差別をなくすことを諦めるというわけでもないが、
そこで考えたことが「容認」もしくは「客観」である。
つまり、少数を少数として認める事ができれば差別をなくすることができるというわけである。
つまり、差別の根源である価値の比較としての対象から外してしまえばいいというわけである。
多数の価値、に相対する少数の価値ではなく、
多数の価値もある、これに別の見方として少数の価値もあると認識すれば良いのである。
実際に出来るかどうかという事は難しいが、
誰もがこのような考え方ができれば、そもそもの差別をする必要がなくなるのである。

つまり、教育の時点で、常識として全てにおける善としての多数を教えるのではなく、
善でも悪でもない、多数と少数の考え方の両方を教えるべきであるというわけである。
そして常に2つの意見が生じる可能性を教え、そしてまた常に2つの意見の見方ができるよう
教えるべきであろうという事である。

私自身が実際に常に2つの意見を双方から見てその価値の比較をせずに、
互いに容認できているか?と言われればそれは全くと言っていいほど出来ていない。
そのように努めてはいるが、これまでの自身の価値観によって
必ずどちらかの価値に寄ってしまう事にはなっている。
しかし、多数に媚びず、少数を贔屓せず、常に自身の価値観で対象の価値を設定しようとはしている。
それというのもこれまでの経験の中で、
常に多数が正しいとは限らなかった事を経験し、
インターネットの情報過多な生活を長く送ったために、
情報の中における扇動や、おとしめ、そのような情報の力の向きを見る経験が、
知らず知らずの内に蓄積されていたのかもしれない。

こうして社会におけるニュースを色々見てみると、
様々な人たちがそれぞれの意見を述べてはいるが、
その意見の中にそれぞれの立場の人がそれぞれの文言の中に自分の価値観を
社会の中における多数にしようとしている様子が見て取れるわけである。
つまり、自分の意見が社会における多数になるということは、
その意見が、しいては自分自身がその社会の中における多数の価値ある存在の旗手であるかのように
見せようとしているのが見えるわけである。
これは知能が、生命としての知能が、自分が多数であり、価値があり、他より優れている事を
表そうとしていることであり、これにより自分の存在を、自己の保存を果たそうとしているという事である。
それは、自分自身が、その意見に対する価値ある存在であり、
それに反する意見は少数で価値の低い存在であると示そうとしている事でもある。

これでは差別はなくならない。

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