2021/8/22

自我と認識

089の最後で自分を認識することなく
他の認識も起こり得ないと書いた事について。

認識それ自体は自分が持っている知能で行い、
自分の個体が受けた刺激について認識することになるのだが、
単に刺激を刺激としてだけ認識するにしても、
誰がその認識を行っているかについての情報も
認識することが必要になると考えたわけだ。

つまり、単に刺激を入力して、
その刺激が何であるかを判定し、
記憶し、その刺激を認識するというのは
これまでの考え方である。
そして、その認識した刺激が連続する事で
意識になると考えていた。

しかし、この「認識」を認識する事として
当たり前のものとして考えていたため、
この「認識」とは?という事自体を
考えていなかった。
誰がどのようにして刺激を認識するのか。
また、その認識自体はどのような仕組みで行われているのかと
いうことである。

認識においては、認識できるあらゆる対象が
この認識の対象となり、認識される。
しかし、認識の仕組みとして価値を判断し、価値を設定するのは
個体の知能であり、記憶としての価値観である。
また、この認識する動作自体が、個体の知能独自のものであり、
他の知能が持つ認識とは当然のようだが異なるということである。

この当然のことは意外に重要であり、
刺激が同じものであってもその認識による刺激の価値や大きさは
その知能毎に異なるのである。

認識は全て同じではなく、その個体毎の知能毎にその認識は
異なるのである。
という事は、逆に考えると、知能独自の認識があるのなら、
その独自の部分は何であるかということになる。

そうすると、個体差、自我、そういうものが現れてくる。

刺激を認識する動作自体には、各生命も各知能でもそれほど違いはない。
体内と体外から得られる刺激に対して、それを受け取って評価し、
その後の自分の行動、生命の維持のためにその情報を生かすのである。

しかし、その情報についての分析や評価は各知能によって異なる。

まあ問題を元に戻すと、自我ありきで認識が行われるというか、
認識するために自我が必要となるというか、
要するに認識を認識する存在として自我を必要とするということである。

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089より

あと追加で言うなら、
自分という存在の刺激を認識することなしに
意識は存在しえないということである。

自分が認識する刺激だからこそ、そこに意識があると知ることができる。
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これは正確に言うと、意識というよりも、精神といったものか。
自分を認識していなさそうな生物でも、意識までは見て取ることができる。
そういう点では意識は連続する刺激の認識という事で良さそうである。
しかし、この認識自体を認識することについてはここで自我、
自分の認識が必要になるということである。

自分がここにいる、自分の存在という刺激についても
知能は刺激として認識する必要がある。
そもそも存在としてのあらゆる対象は刺激としてしか受け取って
認識できないからである。
だから自分という存在についても同様に刺激があり、
その刺激を認識することで、自分を認識できるようになるというわけである。

体と周囲の環境、外界を隔てて自分の体であると認識できる範囲に
自分は存在する。そういう体表面からの刺激を受けているため、
その内側にあるのが自分の体であると認識できるのである。
そして、これは拡張もされる、
一度自分の体であると認識した映像の足に触れる映像を見せると
あたかも自分の足に触れられたかのような感覚を認識するというものがあった。
これはまあ少し自分の認識とは異なるが、
自分であると認識した体については自分であると認識されるということである。
体の拡張として、何かロボットアームのようなものを体に追加した場合に、
このロボットアームが触れる刺激を脳に送ることができたなら、
このロボットアームは自分の一部として認識されるようになる。
この刺激の認識は単に刺激を送るだけではあまり意味がなく、
自分という存在を通して受けた刺激であるという点において重要な意味がある。

ちょっと話が冗長だな。

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自分という存在の認識において自分という存在は刺激である。

自分という存在の刺激を認識する事の出来る知能を持つものが精神を持つ。

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認識能力は成長する

自分の認識も含めて認識能力は知能の成長とともに成長する。
これはまた次回に。


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