2021/8/21

認識と認識前について

これまであらゆる認識は
脳へ送られた刺激がどのようなものであるかを
脳が選定、設定した後で、
その認識に際して最も強い刺激、最も価値のある刺激を
想起するのと同じような仕組みで認識されると考えてきた。

で、その刺激の知覚、認識が、
その認識において何をどのようにして認識していると
感じられるのか、まずそこについて考えてみる。

意識は、連続する刺激の認識であるが、
このときの認識は、刺激の知覚という意味での認識であった。
では、この刺激を知覚する、つまり、
その瞬間にそういう刺激があったと知るためには
何が行われているか、考える必要がある。

これまで漠然と認識として書いてきた内容、その意味は
何であるか考えてみる。

普段、刺激を受けた時に、その刺激を認識したと感じると、
自分自身は、いま、どこにどのような刺激があったと感じたという
感じがする。その刺激を知覚した、認識したということである。

では、この認識は刺激を刺激として知ることが認識なのであろうか。
普段の生活では刺激は意識のある間、活動中は常に何らかの刺激を受けている。
そして、その瞬間、瞬間において様々な刺激を受けていると知覚することになる。
では、そういう刺激の認識というのは、何をもって行っているのか、
これについてであるが、脳が自ら自分の認識したい刺激を選択しているのか、
それとも受動的に受けた刺激の中から刺激を選択しているのかについては、
これは後者の受動的であり、その中からその瞬間に重要である価値のある刺激を
選択して認識していると考えられる。
刺激の知覚、認識のシステム自体が受動的であるのでそう考えているのだが、
何か刺激を選択しようとする目的があった場合でも、
まずその目的を用意し、自らその刺激を認識しにいくことはない。
目的が出来た後は、その目的に合致する刺激を受けた後で
目的の刺激を選択して認識しているように感じるだけである。

あらゆる知能活動、認識活動は、受動的なものである。

あたかも期待して、予測して認識しているように感じる認識であっても、
そう感じるのは目的としての状態であり、期待していると認識している状態のみが
認識され、その刺激は結局は待っていることになる。

少し前に思考している状態でさえ、その状態である刺激を認識することによって
自分が思考していると感じていると書いた事があったが、
その自分が何かの刺激を認識していると感じる事も、
その刺激を認識したという刺激を認識することによって認識していると感じるというわけである。

連続する刺激の認識が意識であるというわけだが、
この刺激の認識にとっては意識はその認識しているという状態が
連続していることで意識となっていると感じるということである。

つまり、まとめると、
刺激を認識するということは、
それ自体は知能を持つ個体が、その個体と周囲の環境を把握するために
刺激を介在させて知る事。
そして、それを連続して行う事が意識であり、意識として認識される状態である
というわけである。

とにもかくにも、個体が存在し、その個体にとっての環境が存在するわけである。
個体自身もその体内が存在するが、直接状態は把握できない。
結局、その把握を行っているのは脳であり、
その脳と個体と環境を繋ぐものが刺激である。というわけである。
そして、刺激を介在させて生命体が持つ知能が、
その体内と体外の状態を知ることが認識であり、
それを連続して行う事が意識であるという事である。

上位から考えてみると
意識的に何かを行うというのは今の状態から変化する未来の心配事が
予測されるために不安になりそれを知ろうとする行動、行為、ということである。
普段の生活でも心配事が無ければ、それについて考える事はない。

とすると、意識というものは、
やはり何か特別なものとしての意識が存在するわけではなく、
連続している刺激の認識が、あくまで個体として持つ知能の脳が行っている知覚行為であるために、
その刺激を認識しているものが自分自身であると認識されることで、
その連続した状態、つまりは連続する刺激の認識を行っている存在が、
自分であると認識されつづけるために、自分自身に意識があると思っているという状態のことを
言っているだけのことである。

その刺激を認識している個体が自分であると考えているため、
自分が認識を行っていて、その自分には意識があると思っている、
そういうわけである。

認識や意識について
よく飛躍してこの世界は仮想空間であるとかいう考え方もあるが、
実際はそれであっても問題はないということである。
というか、それを証明するすべがないので、
どのような考え方であっても間違っているとは言えない。
ようするに客観的に認識するすべがないというわけである。

客観的なものの見方でさえ、
自身の脳が作り出した第三者としての客観性しかないので、
正確な意味では客観的ではない。

自分と全く同じ存在が、ある対象について同時に見た時に差異が生じるかどうか、
これが完全な意味での客観性であるが、
それでさえもう自分と同じ存在が同時に存在しえないので無理な話である。

あ、唯一あるとすれば量子、
量子テレポーテーションができる2つの量子からある対象について
観測できれば完璧な客観性が得られるだろう。
まあ量子に観測する能力があればの話だが。

---------------
知能が認識前に行っているのは、
これから認識しようとしている刺激の選択である。

その刺激に意味をつけるために価値を設定するのである。
価値の高い刺激は本当の意味では受動的であるが、
自動的に自らが認識し、認識できた刺激として知覚する事になる。

価値の有無という点においては、
普通の生活をしていて、その存在として価値のある物は無数にあるが、
ふと足元の小石に注意を向けるのはなぜだろうか。
視界にも、音にも匂いにも、もっと価値のある存在はある。
生きていく上で、足元の小石に何か意味や価値があるはずはない。
それでもその小石に注意を払い、認識するのはなぜか。
その小石に注意を向け、認識するのは、
その瞬間に体内・体外にある刺激の中で、もっともその視界の中にある
小石が最も価値が高いものとして脳がその価値を設定したためである。
別に食べられるものでもないし、売ってお金になるようなものでもない。
それでも注意を向けるのはなぜか。
たまたまその視界を向けた時に最も焦点があう存在だったから、
ただそれだけである。
ただ、それだけであっても、その小石は価値ある存在として認識された。
他に価値ある刺激が同時に存在しなかったからである。
視界の情報というのは思った以上に刺激が強く、
その対象となる存在が何であっても焦点が合うと物体としての形の刺激が
強く脳に送られることになる。それがただの小石であってもだ。
視界を動かして焦点が合うものを次々に認識するというのは
普通に起こり得る事である。
次の瞬間には小石より強い刺激の対象に認識が置き換わる事もあるし、
つまりは個体が受ける刺激というのは相当多く、
何か目的をもって対象を認識しようとしなくても、
次から次へと様々な物事の刺激はやってくるというわけである。
結局、次から次へとやってくる刺激に対してその価値を判定し
認識しようとするならば、ある瞬間においては1つだけ、最も強い価値のある刺激のみ
認識されるということになる。
そして、その認識を自分が行っている感覚、その感覚の連続こそが
意識として感じられるものであるというわけである。
だから、認識も自分が行っていると感じられるし、
意識も自分が持っていると感じられるわけである。

そういう点では意識には別に何か特別な意味はないということになる。
それこそ認識にもである。

重要な意味があるとすれば、
その個体において、これまで記憶してきた刺激と、
今知能が把握している自分自身の能力と存在、
その自分の状態と、周囲の環境の状態、
その刺激の記憶から、今より先について予測や期待される刺激について
認識しようとすること、その知能の働きが、意味のあることである。

刺激の認識や意識自体は受動的なものであるわけだが、
生命として、存続し続けようとするその欲求、
この欲求に応じて予測や期待される刺激を選ぼうとすること、
これこそが知生体として存在し、生きようとする本質である。

人間がこの先も生きようとする事、
その思いが、今より先の認識として、意識として、
どのような刺激を認識しようとするか、そういう欲求になっていて、
それに従って知能が行動を目的として持とうとしているのである。

これまでの自分と環境の変化の刺激の記憶から、
今を経て、今後よりよく生きようとするためにどのような刺激が必要であるかを
予測、期待し、それを目的として行動しようとする事、それが知能の在り方である。

人間としてはこれまでの経験を基に、
この先どうやって生きていくかを決めているのが知能、脳であり、
それに従っているのが自分であるというわけである。

完全なる自由意志があるとすれば、
環境には因果しかないが、自己については自由意志があるはずである。
ただし、自己についても過去には因果しかないので、
自由意志があるのは予測と期待においてのみである。

---------------
あと追加で言うなら、
自分という存在の刺激を認識することなしに
意識は存在しえないということである。

自分が認識する刺激だからこそ、そこに意識があると知ることができる。


TOPに戻る