2021/8/17

意識と無意識と価値観

意識に該当するものが
連続する刺激の認識であるとして、
その認識するべき刺激を選択しているのは
価値観や思考のパターンといった
刺激の記憶によるものだと考えた。

であれば、
価値観はその刺激に対する記憶の強さということであろう。
記憶の強さというのは、その刺激に対する記憶の関連する要素の多さや、
繰り返し刺激と想起が行われることによる強化、
そういったものによって、他の刺激の記憶と比較して、
より想起されやすい刺激ということである。
これは、価値観としての刺激の記憶群の中で、
より高い価値がある刺激として扱われ、
その刺激に関連する僅かな励起に対しても大きく反応する刺激の記憶ということになる。
そのために、他の刺激の記憶に比べ、より認識されやすい刺激となり、
頻繁に認識されることになる刺激となる。
この頻繁な認識により、
知能はというか、人間はこの刺激がより高い価値を持っていると認識しているわけである。

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高い価値は、よりプラスの快い価値ということではなく、
とにかく強い刺激の記憶という意味である。
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別に価値観などという物もあるわけではなく、
人間の知能が価値観という言葉で、グループとして扱う事で認識しやすいようにしているだけで、
本来の価値観というのは、各刺激に対する記憶の強さ、
その総括・まとまりということである。

ある瞬間における
ある強さのある種類の刺激に対して、
その知能が持っているその刺激に対する記憶の反応の強さ、
これが価値観である。

価値観は後天的にその強さが変化するということも以前書いたが、
基本的に生命としての個体としての誕生後に得られる刺激の記憶ということである。
条件が変わればその瞬間における価値も変化するということである。

例えば空腹の時の食べ物と、満腹の時の食べ物についての価値が異なるようにである。
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無意識について

087でも少し無意識について書いているが、
087では認識されなかった刺激が、知能に対して行う影響が
全て無意識ということであった。

無意識という世界というか、何か特別な物があるわけではなく、
認識されなかった刺激の操作というか、知能への、脳への働きが
無意識ということである。

で、この無意識に何か働きがあるのかというと、
別にそもそも無意識という特別な何かが無いのであるから、
働きも無いとしか言いようがない。
しかし、これまで知能の働きの中で意識と無意識というように
分けられてきた知能活動においては、無意識に該当する働きは必ずあるということになる。

無意識の働きはその働きの瞬間に認識したり意識することができないので、
後から認識した結果的な想起という形で追跡するしかないのだが、
少し考えてみようか。

無意識のというか認識されない活動として真っ先に思い当たったのが
エイリアンハンドシンドロームである。
不随意運動としても呼ばれる手の勝手な動作である。

感覚的な刺激の知覚はできるらしいが、
とにかく自分の意志、意向とは関係なく手が動くというものである。
これが無意識による動作に当たるかというと、
無意識による操作ではないということになる。
その手の動作は一見独自に動いているように見えるが、
視覚で確認した対象に向かって勝手に動いていくような動作をしたり、
触れた対象をつかむとか、手の動作としては、
自分が意図しない動作をするものであるが、
無意識に動作しているというよりは、勝手に動作しているように見える。
つまり、その対象の手の動作を自分の手としての刺激で
認識できないために、手の動作を制御できない状態にあるのである。
これは、手の動作の感覚、刺激が認識できないことによるもので、
その手の動作を刺激として認識できないのである。
そうすると、手を動かすというそれ自体の命令についての
フィードバックが無いということになる。
手が動かないというわけではないので、
手を動かすこと自体はできるが、その操作についてフィードバック、
つまり手の動作に対する制御ができないのである。
正常であれば例えば10cmだけ右に手を動かすという所を、
延々と右に動いて行ってしまうとか、少しだけつまむという所を
力いっぱいつかんでしまうとか、
そういった自分の手でありながら自分の手として動かせない所に
この問題が起こっているということになる。
これは、何か動作をするという目的が生じ、
その目的を達成するためにもっともらしい動作を想起し、
それを実行するのであるが、
通常は、その動作を行いながら刺激のフィードバックを受けながら
修正しつつ動作を行うわけである。
しかし、このエイリアンハンドシンドロームにおいては、
この目的も勝手に、動作も勝手に、修正もできずに、
勝手に動作しているというものである。

無意識は087でも書いているように
何か形として認識できるような存在するようなものではないのである。
しかし、認識されない刺激であっても脳にまでは到達しているし、
感覚であるシナプスの励起までは行っている。
ただ、それが認識されなかったというだけで、刺激は確かに存在しているのである。

エイリアンハンドシンドロームにおいても、
その手に与えられる刺激は一部認識できるという記録がある。
しかし、その手の動作を制御するには至らず、
勝手に動くのである。
そこに無意識の何かが介在しているというものではなく、
単にその手から得られる刺激に対して、脳が認識をするに至らないというか、
その手から受ける刺激を一部受け取れていないという状態にあると考えられる。
だから、その手を見たり触ったりして自分の手であるという認識はできたとしても、
その手に関する刺激の一部が、動作の命令であったり、感覚のフィードバックであったりが
刺激としてやり取りできないために、それ以外の動作の命令や、刺激の認識が一部欠けた状態になり
その動作や操作が制御できないということになるのだろうと考えられる。
つまり、その手を動かさないという動作、止めておくことも動作であるが、
その動かさないという命令が欠けていて、「その手」ということだけが認識されても、
動作であったり、制御が勝手な状態になっていて、
自分で見ている手以外の対象に勝手に動いていくとか、つかんでしまうとかいう
ことになるのだろうと考えられる。

普段、人間の知能は体を動かそうとして動かしているのではなく、
体がその瞬間に何らかの刺激を受け、それに対して
動かそうという目的を欲した時に、その目的を達成するためにもっともらしい答えを作り出し、
それをなぞるように、追従するようにして、都度修正しながら、動いているのである。

そう、基本的に動作については、ある刺激、周囲の環境か、自身の体内から受ける刺激に対する
反応として目的を作り、その目的を達成するように行動するのである。

まあこれについては全ての行動についても言えることである、
行動も思考も想像も全てはその時、その瞬間における個体の反応による目的の発現にたいする
対処としての行動、動作、思考である。

これらの中で、目的以降の情報の伝達が欠損することにより、
その目的の動作が制御できない状態になり、それがエイリアンハンドシンドロームという事になる。

とすると、ある状態において、その行動をするということは、
その目的までは作られていると考えられるが、
その目的の認識を含めて、それ以降の動作や制御には至っていないということになる。

寝ている間にも不随意運動はあるらしいが、
普通の人であっても寝ている間の寝返りなどは認識していない。
だが、これは不随意運動ではないらしい。
エイリアンハンドシンドロームは寝ている間もあるらしいが、
これの発現については寝返りと同じきっかけであるが、
その制御ができないということなのだろう。


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