2021/8/16

意識と無意識

082で無意識について少し考えていたが、
結果的には意識として活動していない部分の知能の活動が
無意識ということになっていた。
まあ082では後半、思考しているというそれ自体も刺激になっていると
思いついたのでその話になってしまったが、
無意識は意識できた刺激以外について知能が行っている刺激に対する活動ということになる。

意識は連続する刺激の認識である。

無意識は意識で認識されなかった刺激による知能の活動である。
まあそういう事になる。

一応便宜的に意識や無意識という名前で説明しているが、
要するに意識は「連続する刺激の認識」の事を言っているだけであり、
意識できない何か全てについてを無意識と呼んでいるだけである。

しかし、無意識はただ認識されなかった刺激であるだけで、
「基本的な感覚」(086より五感とそれ以外の感覚について受けられる刺激についての感覚を
こう呼ぶようにする。)としては脳には刺激としては送られている。

無意識であった刺激は、
シナプスの励起はされたが想起されずに認識されていない刺激はその後どうなるだろう。
想起そのものが価値ある刺激として認識に該当する知能活動であると考えられるが、
認識する必要がないと知能が判断し、励起のみで終わった刺激は、
やはりそのままの状態で終わるのだろうと考えられる。
次の瞬間にはもう次の刺激が基本的な感覚で受け取られているし、
わざわざ時間的に以前の刺激であり、知能が価値が低いと判断した刺激を
もう一度励起して認識しなおそうとはしないだろう。
そもそも認識する価値がないと知能が判断したから認識しなかったわけであるし、
その刺激をわざわざ保持しておく必要も余裕も知能にはないと考えられる。
状況は刻一刻と変化しているし、そのために意識として
連続する刺激の認識を行っているわけである。
そうすると無意識はそれほど重要ではないということになるし、
そもそも無意識で何かを行っているわけではなく、
知能が意識として使おうとしなかった刺激の全てが無意識の所属であった
というだけのことなのだろう。

無意識に何かをしたという事にはならず、
その何かをしたということには、
その何かをした個体が持つ知能における価値観によって、
基本的な感覚を受け取ることと、その個体が持つ目的によって決まることになる。
つまり、無意識が存在するかどうかは関係なく、
意識されずに行動したというだけで、それは
その何かをする行動は、目的にはなっていて、
その目的を実行するために想起されたまとまりのある記憶の中に、
その行動が関連して記憶されていたため、
その記憶の想起に際して、意識はされなかったが行動が実行されたということである。

これは、勘と言われるものと似ており、
勘は結局の所、多くの刺激の経験から、その状況にある場合に、
その後の目的としての予測されるもっともらしい答えとして
想像される刺激の姿である。
無意識の行動は、それまで行ってきた行動が、
その状況を認識した際に、もっとも価値が高いと思われる行動として
記憶から想起され、それが実行された行動であると言える。
だから認識して意識されるのはその状況であるが、
過去に同じような状況の経験の中で、最も良いと知能が判断した
未来予測の中にある行動として想起されて実行されたものが無意識の行動となるというわけである。

勘が経験のない状況では働かないのと同様に、
無意識の行動は、過去に経験がない状況では行動として成り立たない。

今回は上手くまとまっていない感じがするな。

要するに、意識とか無意識とか分けて考えても良いが、
結局、意識されるに至らなかった刺激は全て無意識、
つまり、以降も意識されることはないということである。
しかし、刺激として知能には送られているし、
価値観による価値判断までは行われているが、
認識するために記憶して想起されなかったというわけである。

次から次へと入力されてくる基本的な感覚を
全て覚えておけるほど知能の能力は高くないし、
それほど重要でない、価値が高くないと知能が価値観によって判断した刺激は
覚えておく価値がないということである。

ではその入力されてくる基本的な感覚からの刺激について
価値をどのように判断して決めているのかが、
これまで考えていた無意識にあるということであり、
それ自体は単に脳がその対象の刺激に対して価値を設定するという
知能活動というだけである。

最も価値のある刺激が、最も強い刺激であると認識されるわけである。



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