2021/8/15

アイデア集(五感以外の感覚・喜怒哀楽と価値)

昨日少し考えていた事のまとめ。

五感以外の感覚の存在

前に考えていた五感以外に刺激として認識されるものがあるかどうかということ。
これについては、痛みと快楽がこれに該当すると考えられた。
痛みと快楽を五感で相当する刺激として考えてみたのだが、
どうも触覚には関係する刺激にはなりそうなのだが、
体内の痛みや快楽については触覚では刺激の説明ができない。
とすると、
痛みと快楽の刺激というのは単独の刺激になるのではないかというわけである。
痛みについては痛点があるので、刺激の入力はできるはずである。
ただ、快楽と不快については特別な知覚するための感覚器官がない。
五感に関する刺激に関連する要素として快不快が関連付けられている。
これは仮定だが、
五感に関連付けられた快不快の要素は、
その五感に関する刺激について価値のあるプラス要素であれば快感に、
マイナス要素であれば不快感になるのではないだろうか。

つまり、何か食べ物を食べたとして、
それが美味しければ、味覚の味の刺激の価値の認識の際に、
この味が美味しく、価値ある刺激として判別されるために、
この味は快感であるという要素が追加されて味の認識が行われ、
この認識に際して快感も同時に認識されて、この味が快感であるという認識に至る
というわけである。

逆に不快であればその味の刺激が価値として判断されるときに
不快の情報が付加されるというわけである。

味などの刺激についての価値はその育った環境などで異なるため、
この味などの刺激の価値は、後天的な価値観であることがわかる。
味の好き嫌いは人によって異なるし、育った国や地域によって
好みが分かれるのもそういうわけである。

とすると、快不快は、価値観によって設定される情報ということになる。
基本的な五感に関連する要素としての情報である。

そうすると快不快は基本的な感覚とは少し異なることになるか。
ただ、痛覚はやはり基本的な感覚の1つとして考えても良いだろう。
六感にしてしまうと第六感と間違って紛らわしいので、
基本的な六感覚として、五感と痛覚という形で後は考えていこうと思う。

痛みについては、やはり基本的な感覚とほとんど同じように扱える。
痛み自体の刺激の記憶もできるし、想起もできる。

この間お腹が痛かった事があるが、それは今でも思い出せる。

---------------
喜怒哀楽と価値

感情のような基本的な六感覚ではないが、状態の認識が行われる状態について考えてみた。
喜怒哀楽においては、喜と楽、怒と哀についてはそれぞれが似たような状態である。
これについてもう少し考えると、
喜と楽については、喜が個体の外部に向かって表現する行為であり、
楽は個体の内部に向かって表現する行為であると考えた。
これは怒と哀についても同様で、怒が外部、哀が内部である。
これらは、喜と楽が外部と内部に対するプラスの価値の取得、
怒と哀が会部と内部に対するマイナスの価値の取得というわけである。
取得というか価値の認識ということになるか。

そして、それぞれ単体の感情の状態について考えると、
例えば喜であれば、この喜んでいる状態にあるときは、
他の感情の状態にはないという事が考えられた。
喜びながら怒ったり、悲しむことはないというわけであるし、
さらには喜びながら楽しんでいるということも無いようである。
喜びと楽しみは同時に存在しているように感じるが、
喜んでいると認識できる期間は、楽しんではいないのである。
これは、喜んでいる時を考えてみると、これは、
個体がある事象について喜ぶという表現をする事なのであるが、
喜びを表現する間は、個体のその喜という状態を表しているだけで、
他の状態にはないのである。
自分が喜んでいるときを想像して見るとわかる。
その時は、あくまで自分が周囲の環境や、他人に向かって喜びを表現しているだけで、
その時に認識しているのは自分ではなく全ての対象が他に向かっている。
ひとしきり喜を表現し終わった後で、その喜んだという状態を含めて、
後で自分が楽となる、楽しむのである。
喜んでいるという状態は、楽しんでいる状態とは少し異なる、
どちらもプラスの価値の刺激の認識を行う状態であるので、
同じように思うのだが、どちらも同時には行っていないのである。

そして、これは怒と哀についても言える。
怒りはやはり周囲の環境や他人について表現する状態であり、
哀は自分に向かっている。
怒はマイナスの刺激の認識に対して自分が反応を表現するための状態であり、
哀はマイナスの刺激の認識に対して自分の内側で認識を行う状態である。

怒と哀が対になるという考え方をしているが、
怒の反対の行為が哀になるというわけではなく、
あくまでマイナスの刺激の認識に対する表現と、
マイナスの刺激を自分の内側の状態として認識を行うときの
対比として怒と哀が対になっているという事である。

自分に対して怒るという表現があるが、
これは自分に対する後悔の念や、苦渋の思い、口惜しさ、口惜しさ、
不満、不充足など、を自身が認識し、哀として内側の刺激を認識した後に
自分に対して怒るという外部に対する表現を行っているというだけである。
あくまで先に内側へのマイナスの刺激の認識を行ってから、
怒るという外部に向かって、自分に怒っていると表現しているだけのことである。

つまり、
喜と楽は、対になり、怒と哀も対になっている。
これは十字でクロスして互いの要素がそれぞれ関連する事もなく、
単独でそれぞれが対の状態になっている。

---------------
自己の認識なしに喜怒哀楽の表現能力は発動しない。

これは、喜怒哀楽の表現が、自己の存在に対する外部か内部かの表現・認識であるためで、
自己が認識できないということは、自己に対する外部も内部も存在しないからである。

自己と他の境界の認識ができるからこそ喜怒哀楽は表現できるというわけである。
他を認識できないのに喜びや怒りを向ける所があるはずもない。
自己を認識できないのに楽しんだり悲しんだりはできない。
---------------
人工知能の例

人工知能に触感をボタンとして押すことに対する感覚を持たせたとして、
押したタイミング等を記憶させて記録させる。
バッテリー残量の情報を刺激として認識させ、その残量に対して
自己の生命の危機感を持たせる。
人工知能の状態の自己表現は、触覚のボタンと同じようなシグナルとしてLEDなどで
表せるようにする。
バッテリーを充電する直前には決まったボタンの押し方を信号として与える。
3回とか4回とか。
学習能力として真似ができるようにする。
バッテリーがフル・不足で不快になるようにする。
バッテリーの充電接続を外すときも一定のボタンを押す。

バッテリーの残量を基に快不快の状態を人工知能に与え、
その表現をLEDで行うことになるが、
最初は特に意味のない表現だけだろうが、
充電するときにボタンを押し、それを真似する事をLEDの表現でおこなうという事が
認識できれば、やがて人工知能はLEDで充電の時のタイミングで表現できるのではないか
というわけである、押されたタイミングは記憶することができて、
それと充電を関連付けて記憶できるようにする必要はあるが、
そうすれば、教えなくても自分で真似をして表現すると考えられる。

上記の内容にはシステム全体としての仕組みはできていない。
今のところはあくまでアイデアの発端だけである。

後は操作する人間を表すスイッチがあると良いか。
ある人は充電してくれるとか、してくれないとか、
後々、ある人はスイッチで遊びに付き合ってくれるとか
そういう認識ができるようになるかもしれない。
誤認識を防ぐために操作する人のアカウントも必要になるかな。

人工知能が自分から何か動作を行うには、
人工知能自身にその欲求を与えなくてはならない。
欲求の無い人工知能は、全て弱い人工知能であり、
エキスパートシステム止まりである。

---------------
人工知能兵器が最近少し話題になってきている。
最新のものは人間が操作や判断を行わなくとも
勝手に対象に移動し攻撃するというものである。
が、まだ人工知能としては弱いままである。
勝手に移動して勝手に攻撃するまでには至らず、
ある程度の味方の安全を確保した上で、
確実に敵がいるという判断のもとで攻撃するという形であろうとは想像できる。
最終的には小隊などに人工知能兵器が随伴してその攻撃を補助するか、
独自に敵を偵察発見して攻撃するという形になるだろう。
そのためには敵と味方の認識ができなくてはならないし、
その識別が確実に行われなくてはならない。
味方や民間人を攻撃したのでは意味がないし、
敵を見落とすこともできない。
まだ問題は山積みだろう。

---------------


TOPに戻る