2021/8/13

状態の認識

五感で認識できる刺激と
五感で認識できない刺激、例えば感情とか
はでもどちらも結果的には認識できる
認識できるということは刺激であるということ
刺激であるということは価値があるということ

五感で認識できない刺激と言うのは実体が存在しない刺激
感覚の実体というのは形であるとか、音、匂い、味、感触といったもの。
感情とかにはこの実体が存在しない。

それでも認識できるということは
知能が、この実体の存在しない感情などに
その姿を与えているということになる。
そうでなければ認識できないはず。

霊とか神もそう、実体がない。
見たことがないから見た目などを想像して姿を与えるからこそ
認識できるようになる。

それなら感情にも何か姿を与えていることになる。
自分が喜んでいると認識できるのには、その喜びに対して
五感で表せる姿を与えていることになる。

その感覚の姿が「価値」なのだろうか。

例えば味についての喜びと言えば美味しさとかになるし、
味についての怒りとか不満とかになれば不味さとかになる。

ということは
(ある状態)<->(感情)<->(五感)という関係があるということか。
(美味しさ)<->(喜び)<->(味) という意味での関係である。

つまり、五感の何かとその五感のある感覚について表したものが
感情などの実態のない状態ということになるだろうか。

ある感覚について例えばAという人と、Bという人がいて、
同じ食べ物を食べた時にAの人は美味しいと感じ、
Bの人は不味いと感じたとする。
Aの人もBの人も同じ五感においては味覚の感覚を使い、
同じ食べ物についての刺激を受けたはずであるが、
Aの人はその感覚の価値として美味しいという喜ばしい感覚になり、
Bの人はその感覚の価値として不味いという怒りか不満かそういう感覚になった。

その感覚に対する実体のない感情などの刺激においては、
その知能が持つ価値観や、刺激の価値などは異なることになり、
その実態のない状態を表すには何らかのAの人もBの人も共通する価値観を介して
その感情などの状態を表すことになる。

Aの人は美味しいと言ってその食べ物について喜ばしい価値ある物として説明する。
Bの人は不味いと言ってその食べ物について不満な価値の無いものとして説明する。
それぞれの状態は確かに異なるが、Aの人の感覚の表現も、Bの人の感覚の表現も、
ここでAの人とBの人が互いに意見を言ったならお互いの感覚について
互いに理解できるはずである。
Aの人はBの人の味の感覚が自分と違い、この食べ物を不味いと感じるのだなと知ることができて、
Bの人はこの逆にAの人が、この食べ物を美味しいと感じるのだなと知ることが出来る。

ここにおいて、知能にとって、この実体のない感覚や状態について表す事、
なぜこれが必要になったのか。

自然界においては美味しかろうが不味かろうが、
その個体にとっての感覚の受け取り方なので、別の個体にとっては
その情報はどうでもいいことである。
それぞれの価値観でそれぞれの感覚の受け取り方をすればよい。
では、共通の価値観である感覚の状態をやり取りする必要があるというのは
どのような状態か。
そう考えると「社会性」という物が出てくる。
ある範囲内でお互いに協力し合って生活するには共通する価値観が一定量必要になる。
強さとか性別による階級とか、集団、群れの家族構成とか、
そういった一定数の個体が集まった中での社会性のなかで、
共通する価値観という物が発現してくる。
強い者がボスやリーダーとなり群れを率いるとか、
互いに協力して狩りをすることが必要なので群れるとか。

これは五感では表せない実体のない価値である。

ちょっと自分でもよく分からなくなってきたが、
つまりは、社会的な生活を送るために互いの意思疎通のために
勝手な実体のない状態に対して共通の価値観でもって、
その意味をお互いに分かり合おうとした結果、
そういう共通の価値観における様々な状態を作り上げたということであろう
というわけである。

一人で生活するなら感情などは無くても表現する相手がいないわけだから
必要ないことになる。
他人に対して不安になることもないし、心配することもない。
怒る事もない。唯一あるとすれば自分に対して感じることである。
自分も相手としての対象になる事は考えられる。
でもそれは、一度共通の価値観を持った上で一人になった場合であり、
最初から一人で生きてきた事を考えると、そこには自分を
自分から見た自分としての相手の対象にはならないだろう。

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五感の感覚の実体のない状態の認識

その感覚の実態のない状態というのは
自らの状態の認識として確かに存在する。
存在はするが、それは五感では直接表せない。

霊もそう、神もそう、実際に五感で認識した事はないが、
仮の姿を想像して割り当て、それを五感で認識した上で認識している。

その仮の姿は他の人と同じではない。
霊や神という共通の要素ではあるが、
その認識する姿は間違いなく異なっているはずである。

ある要素に対して共通ではあるが、
その認識する価値においてはそれぞれ異なっている。
各知能の価値観が異なるからである。
まあそれはよい。

その仮の姿は何であろうか。
その始まりは何であろうか。
霊や神は最初人間が理解できない力や現象に対して与えられた
超自然と呼ばれるような事象や状態について名付けられた。
人間にはできないが、それを超える存在ならそれができる、
それを人間が理解、認識しようとしたときに付けられた姿が
霊や神といった実体のない仮の姿である。
この実態のない仮の姿には五感で表せ、認識ができるようになっている。
とすれば、人間が理解、認識しようとしてそれが出来なかった対象について
どうにかこうにか、無理やりに理解、認識しようとした際に
作られたのがこの実態のない状態、ということだろう。
それは五感で表せるので理解できなくとも認識はできる。
実体はなくとも認識ができるで、それは存在することになる。

感情についてもそう、説明や理解ができるものではないが、
自分のその状態について認識ができるので、それは存在する。

ということはだ、
実体がない状態であっても、認識するためには
五感による刺激を何かしら与える必要があるということか。
名前であったり、姿であったり、音や匂い、味、感触、
であれば、感情であっても、想像した何かについても、
五感による何かしらの刺激を割り当てない事には認識できないということか。

愛にしろ、悟りにしろ、神も、それを認識するには
五感の何かしらの刺激を割り当てる必要があるということ。
逆に言えば、五感の何かしらの刺激を割り当てられれば、
その対象を認識できるようになるということでもある。

そしてそれは知能が割り当てるもので、
各個の知能によってそれが異なる。
さらに言えば、その割り当てられたのは刺激であり、
その刺激の価値も知能により異なる。

人間が思っている想像の芸術なども何かしらの五感の刺激が割り当てられているはずであるし、
人工知能が、実体のない何かについて認識しようとするならば、
その対象について何かしらの人工知能が認識できる刺激を割り当てて認識すればよい
ということでもある。

例えば人工知能が芸術に対して「芸術とは光である」と言ったら
何だかもう芸術っぽい感じがする。
その言葉について人間は色々自分の価値観で勝手に想像して
自分で勝手にその実体のない状態について理解しようとする。

私も「芸術とは光である」というのを自分で書いておきながら、
絵画の全体的な明度のことか、彫刻の陰影の事か、
それとももっと壮大な想像力の先にある光みたいなものかと勝手に想像した。

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まとめると、
やはり認識を行うためには刺激が必要であるという事。
そもそもの脳の構造からして刺激中心の活動であるのは間違いがない。
記憶にしても、刺激を記憶するわけであるし、
感覚にしても、刺激を知覚するためであるし、
想起にしても、刺激を思い出すわけであるし、
想像にしても、新しい刺激の関連を作り出すことであるし、
今回の実体のない状態にしても、刺激を割り当てて認識するわけであるし。


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