2021/8/7

知能の状態の刺激

思考の時に考えた事だが、
思考していると認識するということは、
思考しているという状態の刺激が存在するということであり、
この思考しているという状態の刺激を認識しているから、
意識としてああ自分は今考えているんだなと分かるというわけである。
それならば、自分の状態として認識している刺激には
思考状態以外の状態についても同じことが言えるのではないかということである。
例えば、感情とか、その辺について考えてみる。

特に感情などでは、ある感情の状態にあったとき、
その瞬間は自分の感情の状態に気が付かないことが多い。
怒っている最中に自分は怒っていると認識していないようにである。
怒っている最中はもうその事に精いっぱいであり、
怒った対象と自分の行動について考えることが優先される。
しかし、少し間をおいてからであると、その怒っていた最中のことについて
思い出すように認識され、ああ自分は怒っていたんだなと気づく。
思い出せるということは、その状態が刺激となっており、
記憶されているということでもある。
であれば、やはり感情の状態についても刺激としての形で存在するということになる。

何かの対象について楽しんでいる最中もそうである。
その瞬間においては楽しいのでその対象について認識することで精いっぱいになっており、
自分の感情がどうとか考えることはない。
楽しい対象について優先して認識しようとするので、他の刺激は後回しになる。
後になってからああ楽しかったなと思い出すことはあっても、
楽しい最中にあえて楽しいのを自覚・認識しようとしない限りは
その最中に楽しさを認識することはない。
要するに、楽しさについて認識はしないが、楽しさの対象についての認識は行っているわけである。

それは自分の感情についての刺激よりも、その感情を与える対象についての刺激の方が強いという事になる。
つまり、対象の刺激が主であり、自分の感情はその主たる刺激の関連した刺激になるという事である。
その対象の刺激について認識する事で、その刺激に関連した自分の感情の刺激が励起されるというわけである。
例えば自分が好きな相手がいたとして、自分が好きだからその人を思うわけではなく、
その人を思うと自分が好きだと認識するというわけである。
感情においては先行するのは対象であり、自分の感情は関連した記憶ということになる。

もちろん、自分が好きな人は?と聞かれれば、その関連において逆を辿って
自分の感情の刺激に関連した、対象としての相手を想起することはできる。
しかし、普段、その刺激の認識としては、
自分が好きだという感情を優先して認識してから、
この相手を思い出すというような、この順番で認識することはなく、
まず好きだという相手を認識してから自分の感情を認識することになる。

感情の刺激は、対象あっての感情の刺激というわけである。

つまり、感情の刺激は、刺激の関連する要素としての刺激ということになる。

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無論、対象についての感情は変化することはある。
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知能の状態としてまず感情を例に挙げたが、
これまでは思考するという状態について刺激があると考えてきた。
ということは、知能が認識できる知能の状態については
それぞれ刺激が存在するという事になる。

思考、感情、創造、想像、妄想、空想、
およそ知能がその活動において関わる要因については
その状態の刺激が存在することになる。


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2021/8/9続き
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刺激の種類によって主たる認識に用いられる刺激と、
副次たる関連するだけの要因としての刺激に分けられるかについて考えてみる。

上記では好きな対象としての記憶と、
好きだという感情だけの記憶に分けられ、
対象込みで認識に足る刺激となると考えた。
そして、感情の刺激はそれだけで認識はされないと考えた。

例えば喜怒哀楽に対して、対象を持たない刺激の認識が存在するだろうか。
ただただ喜ばしい、ただただ怒っている、ただただ哀れ、ただただ楽しい。
そういう状態は考えられるだろうか。
こういう状態について考えても思い当たる記憶は存在しない。
何かしら対象があってこその感情であるようだ。
対象が自分であっても他人であっても、他の物品であってもだ、
感情のみで認識されることはないようである。
とすると、刺激については、単独で認識される刺激と
単独で認識されない刺激があるという事になる。

思考するにしても、目的もなく思考するという認識は起こらない。
ということは、感情や知能活動における思考や想像などの状態の刺激の認識には
目的や対象となる存在が必要となり、単独で認識されない刺激ということになる。
であれば、単独で認識が起こらない刺激も存在すると言えるだろうか。

刺激は一定の強さがあれば、認識のシステムから考えて
その刺激がその瞬間において最も強い刺激であれば、
その刺激が認識されることになる。
もし、単独で認識されない刺激があるとすると、
その刺激は認識されることがないということになる。
認識されないということは、意識もできないということになる。
何かの対象を思い浮かべた時に、対象への感情を認識できないということでもある。
とすると、感情や思考などの状態は刺激ではないのだろうか。
対象への感情や思考している状態などの認識はできるのであるが、
それはある瞬間における認識の際に認識できる状態ではなく、
あくまで想起の形で後から再認識できるというものである。
しかし、再認識であっても想起できるということは刺激の形をとっているはずなので、
あくまで感情やら思考の状態も刺激で表せるはずである。
それでも、単独でその状態を認識できないとすると、
やはり刺激には複数の種類があるということになる。

それとも想起にだけ特化した刺激があるのであろうか。

感情や思考などの知能の状態の認識は、
どちらかというとかなり知能の能力としては高次なものである。
他の知能のある生物であっても、感情などの状態を表す事の出来る生物は
多くない。そしてそれらの状態を表すことのできる知能をもった生物は
思いつく限り全てある程度知能が発達した生物である。

とすると、本来、というか、最も原始的な基本的な刺激というのは、
対象を持つ刺激、意識としての認識を行う事の出来る刺激であり、
感情や思考の状態を表す刺激は、後から獲得した知能の能力として
作り出した刺激ということになるだろうか。

その知能の状態を刺激として扱うために、
つまり、その状態を自分自身が後からであっても認識できるように
刺激にしたということ。

それとも知能が作り出した刺激ということで特別なのか?
認識できる対象がある刺激については何ら問題なく認識できる。
しかし、対象がない知能の状態についての刺激は後から想起して認識できるが、
意識として認識することはできない。
というかそもそも想起して認識しているのか?
あくまでその想起した対象はその状態を含む対象や目的を想起しているだけなのではないか。
そうすると、感情や思考などの知能の状態はそもそも刺激になっていないのだろうか。

いや、感情や思考しているという状態は後からでも認識されて
その状態であることを認識、知覚できるというこは刺激ではあるのだろう。
それとも、やはり刺激に種類があるということだろうか。

ある瞬間において認識できる刺激と、
想起することで認識できる刺激、
まてよ、ある瞬間において認識できる刺激と言うのは
感覚、五感で認識される刺激ということか。
感情や思考などの状態の認識については、五感で知覚できない。
そういうことなら、
五感で知覚できる認識できる刺激はある瞬間において認識できる刺激であり、
五感で知覚できない刺激というものが、ある瞬間において認識できない刺激、
後から想起することで認識できる刺激ということになるか。

要するに感情や思考する等の状態は、その状態を知覚するための感覚を持っていない。
だから知能がその刺激がある瞬間において最も強い刺激であったとしても、
脳はその刺激の存在を受け取っているが、その瞬間においては認識できないということか。
だから、もしその瞬間に感情や思考などの状態の刺激が強かったとしても、
そもそも感覚として認識できないために認識されないということか。
でも、刺激ではあるので、記憶もされるし、想起すれば刺激として
まあ対象や目的という刺激を持つ認識できる刺激の関連する刺激として想起できるというわけだ。
そうすると、あくまで認識できる刺激は五感に関する刺激だけで、
感情や思考などの状態という刺激は、刺激ではあるが、単独で認識できない
特殊な刺激ということになるか。

刺激の価値設定において、知能が行っているのは、
その対象となる刺激が自分の知能がもっている価値に照らしあわされたときに、
どのような価値を持っているか決める事である。
これは、ある対象、認識できる対象の刺激であっても、
認識できない状態の刺激であっても行われるはずである。
だからある対象についての価値が設定されるときに、
その感情などの状態の刺激が関連される時に、その関連する刺激に価値が生じて記憶される
ということになるだろうか。
ある対象の認識というだけであれば、その対象の認識によって設定される価値は
あくまで感覚として知覚された対象についての刺激、価値だけということになる。
しかし、知能がその対象について認識する時には、
多くの関連する要素として、複数の関連した刺激を伴って認識することになる。
それらの関連する刺激は単に認識できる感覚の別の刺激であったりもするが、
感情や思考などの状態の刺激も関連されることがほとんどだろう。
要するに対象が好きとか嫌いとかいう状態の刺激も関連された形でまとめて認識、記憶されることになる。

さらに言えば感情や思考の状態というのが認識できるということは、
感情や思考の状態というのは五感の感覚から成り立つものだということになる。
いや、感情はある対象に対する価値の設定状態であるし、
思考の状態というのは目的に対するもっともらしい答え、その答えとなる価値ある刺激を
作ることを試みるということである。
そういうことは、感情や思考の状態は人間がただそう分類して呼んでいるだけで、
感情は人間が表現できる要素に対して名前を付け、それを対象として認識できるようにしているだけか。
思考の状態も、知能活動として行われる思考について認識できる対象とするために
その状態をまとめて刺激として認識できるようにしているだけなのか?

ちょっと複雑になってきたので整理しよう。
五感の感覚で知覚できる刺激は認識できる。
感情や思考の状態は想起すると認識できる。
認識できる刺激というのは感覚で知覚できる刺激だけである。
刺激には価値が設定される。

疑問になるのは、
五感の感覚で知覚できる刺激だけが認識できるとすると、
想起によってのみ認識できる刺激は刺激ではないのかということと、
認識できるという時点でそれは刺激であるという事が矛盾することになる。

感情や思考の状態は刺激ではないのだろうか。
んん、まあ状態自体が刺激ということではないような気もする。
感情や思考の状態は知能の状態であって、知覚するような刺激ではなさそうである。

知能の活動の状態の名前、それが感情や思考という状態であるということか。

とすると、想起によってそれが認識できるのはどういうわけになるだろうか。
認識できるのは刺激であるはずである。
例えば感情であれば、ある対象についての感情を認識した場合、
どのような刺激が認識されるか。
例えば好きだという感情の状態があったとして、
その想起によって認識される感覚は何になるか。
見たり触れたり聞いたり嗅いだり、ということか、味?はまあ食物などが対象になるが、
そういった感覚の刺激に分割できそうな気はする。
それらの刺激を期待するということについての感情が好きだということになるだろうか。
期待も含めた刺激であるので、その瞬間においては実際に感覚の刺激が存在しないために認識できないが、
想起することによって想像したりすることで

刺激として、感覚として刺激が作り出されて認識されることになる。

思考も似たようなことになるだろうか。
思考も実際に認識できる対象となる刺激はその瞬間には存在しない。
後から想起することによって、仮定や想像などでそのもっともらしい答えの姿を
刺激として作り出し後から認識できるようになる。
つまりはこういうことか。

それならある瞬間に刺激として存在しなくても、
後から想起する事で刺激が作られて認識できることに合致することになる。

ということは感情は自分が想像する対象からか、対象への刺激についての
認識ということになる。
つまり自分が勝手にその対象に抱いている刺激とか、期待している刺激、
その姿、形のことを「感情」と言うと説明できることになる。
感情といっても勝手に思っている事、それだけのことなのだな。

思考も似たようなもので、もっともらしい答えを得るために
目的を持ち、その答えに合わせようと知能が色々な刺激の形のまとまりを
作り出そうとすることというわけである。

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感情や思考において自分に有利な確証バイアスがかかるというのも納得。
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