2021/8/6
考えるという刺激
082で新しい考え方として
考えるという刺激があるのではないかという考え方が出てきた。
つまり、思考しようとしている事自体が刺激となっていて、
その思考しようとするという刺激が、
思考をおこなうきっかけになっているのではないかということである。
今回はこれについて考えてみる。
自分が何かについて考えていると認識できるのは、
自分が考えている状態にあると認識できるからである。
それならば、考えている状態を認識できるということは、
考えている状態という刺激があるのではないかということである。
つまり、知能が、
今の自分は考えている状態であるという刺激が存在するということである。
知能が、生命としての個体にあって、
その個体がどのような状態にあるか認識するには、
やはり刺激が必要となる。
大前提である連続する刺激の認識が意識であるので、
その状態を確認するにはやはりその状態を意識しなくてはならない。
であれば、知能がその知能として行っている活動の状態にも
それに対応した刺激が存在する必要がある。
思考している、考えているという状態や、
想像している、創作している、企んでいる、
図っている、ほとんどが知能の活動においては思考に収束するが、
ともかく知能が何かについて考えている状態も刺激が存在し、
その状態にあることは刺激が存在しているわけである。
で、この考えている状態である刺激はどのようなものであるか。
基本的には思考自体は、目的とそのもっともらしい答えを得るための知能の活動である。
活動の内容としては、最初に価値のある目的を認識して、
それについて知りたい、価値ある目的について知りたいと欲した時に、
行う知能活動である。
目的として認識した対象について仮定的なもっともらしい答えというのが
目的とセットで認識される。そして、その認識されたもっともらしい答えが、
最初の目的となった対象の価値に等しい、合致するものであったときに
目的は達せられ、その目的であった知る事が完了するわけである。
この時に行われるのは、目的であると認識した刺激の記憶として、
その目的の対象に関連する全ての刺激の記憶が励起される。
そして、その刺激群の中から新たな関連を作り出して、
新しい刺激の、記憶となる、刺激の関連セットを認識して、
その刺激の関連セットが目的の答えの価値と等価になるように
様々な関連を変えながら次々と試みることである。
ここでは、まあ特別的に思考することとして書いているが、
実際は知能の活動全般は全て同様の機能であり、単に呼び名が違うだけであろうと思われる。
その目的ともっともらしい答えのセットがどのような内容であるかによって、
その呼び名が違うだけで、行っていることは、全て同じである。
悪だくみも、空想も、創造も、目的ともっともらしい答えが違うだけで、
その対象は知能にとっては価値の刺激の関連と組み合わせが違うだけで、
行っている事は新しい刺激の関連セットの記憶を生み出そうとすることである。
考えている最中に認識される刺激は
そのもっともらしい答えを得ようとしている方の刺激となり、
思考している刺激は思考の最中には認識されない。
しかし、そのもっともらしい答えを作り出すことを止めると、
ああ今考えているなという感覚が認識できるので、
一定の刺激の強さで維持はされているようである。
ある程度考え続けていると疲れてくるのは、
この思考の刺激の維持と、新しい刺激の関連づくりによって
脳に疲れが出てくるためだろう。
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