2021/8/3

無意識の構成体

知能における意識が連続する刺激の認識である場合、
無意識はそれ以外の知能の活動の何かもしくは全てということになる。
この場合において、無意識は何によって構成されているのか考えてみる。

意識として認識されている部分は、
知能においては連続する刺激の認識ということになるが、
これは、知能の活動においてはその活動の結果をなぞって見ているようなものである。
要するに、何かが起こった後の結果を
自分が主人公であるかのようにして体験しているようなものである。
とはいえ、その起こった出来事に対して選択していると感じているのも
自分であるので、自分が様々な選択において、それぞれ自分なりの選択を
行った結果としての体験ではある。

そうなると、意識的にという点において、
それらの意識的となる連続する刺激の認識は、
何かしら自分らしい選択が行われた結果と言うわけになる。
では、その選択は何が行っているのかということになると、
それは自分の知能において、意識されなれない間に行われている何かということになり、
それでは、それは無意識ということになるだろうというわけである。

081でも述べた知能の構成体、知覚と記憶と想起、
その中で、意識、つまり連続する刺激の認識に関わる部分は、
後半の記憶と想起になる。

五感の刺激が受容体から脳内に伝達された後、刺激を認識する特定の野に対して
励起が行われ、その励起されたシナプスに関連する刺激の意味合いというべき
刺激の関連する刺激の励起が行われ、刺激の内容が意味をなす。
その後、その刺激がその瞬間に最も強い刺激であった時に
想起と同じ形で刺激が認識され、意識上でこの刺激を受けたと知る、理解することになる。
この中で刺激の認識に当たる部分は、最後の想起と同じ形でという以降の部分だけである。

では、それ以外の部分、
刺激が感覚の受容体で受け取り、その情報が神経を伝達して脳内に送られ、
それ以降の刺激が認識されるまでの間の部分は全て無意識の部分である。
認識される刺激の姿しか見えないのと同じであるので、
それが刺激であると知能が判別し、刺激として認識できるように、
その意味合いを刺激の情報に付け足す必要があり、
それを行うのが無意識ということになる。

ではそれは何かと言えば、要するに刺激の入力と、
その刺激のまあ平たく言えば翻訳である。
その後は
知能が出力した刺激ですよという情報を知能で認識して
ああこういう刺激を今受けたんだなと感じるわけである。

その時その瞬間における認識される刺激は
刺激として知能が最も強い、つまり最も価値があると決めた刺激である。
良い刺激か悪い刺激かは関係なく、その時にもっとも価値がある、
つまり最も強い刺激である。

その刺激を強いと決めるか、弱いと決めるかは
その時点で知能がもっているその対象となる刺激についての記憶である。
刺激の認識も、想起した時の刺激の認識も、刺激の認識は同じように
一度シナプスの励起の後に行われる。

ちょっとまて、
何かある対象について考えようとした時に、
その考えるという状態の刺激が発生するということか。
今考えていると認識しているのは、考えているという脳内の状態、
その刺激を認識しているためというわけか。
考える状態という刺激。これが思考に関係しているというわけか。
思考する状態というのは、
何か考える目的に対する答えを得ようとすること。
この考えているという状態の刺激が励起されている間、
知能は考えるということか。
考えること自体は、知能が持つ手持ちの記憶のなかから、
新たな刺激の関連を作り出し、その考える目的である課題の答えに合うような
刺激をパズルのピースを当てはめては変え、合致するものを探すように
繰り返し試みる事。というわけか。

目的があるから考えるというより、
目的があって、考える状態になったから考えていると感じるというわけだ。

例えば温暖化の問題についてと書いてみたが、
今はそれについて考えようとはしていない。
温暖化の解決策、とは書いてみたが、ふと何か二酸化炭素とか、
極のジェット気流とか思い出したが、これは答えではないな。
ただ、もしここで、温暖化に対する解決策の案として考えてみた時、
今は考えている状態だと認識している。
その場合は、エネルギーの二酸化炭素の関係を減少させるとか、
緑化をすすめるとか、まず思い当たるのは地球への人間活動の排熱と大気の保温についての
対応策という答えが出てきた。

目的もなく考えるということもなさそうであるし、
目的が出来て、それの対応として思考を行うという感じであるな。

目的自体は根本としては価値の取得のための欲求ということであるし、
その刺激に対する適応、対応として思考が行われるということだろう。

刺激自体は、知能が認識するためのデータの塊として扱うものであり、
刺激の形にすれば知能が認識できるというものである。
だから、思考にしろ、想像にしろ、その状態や姿が認識できるということは、
それが刺激の形をしているということに他ならない。
思考していると自分で分かるのは、思考しているという状態の刺激があるからである。

刺激は知能が認識する情報単位ということになるのかな。


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