2021/8/1

連続する意識と思考

意識が連続する刺激の認識であるなら、
思考においても連続する何かがあるのではないか、
という思い付きについて考えてみる。

知能としての個体の内外の状態と状況について観測する仕組みが
認識であるが、これは連続することに意味がある。
それならば、認識以外の知能活動として、
思考やそれに類する知能の活動も連続する何かが
行われているのではないかという事が思いついた。

知能が活動している間、つまり意識のある間は、
常に刺激を連続して認識している状態でもある。
知能は意識がある間は常に活動状態にあるのであれば、
その活動中に認識以外の活動も行われているのではないかというわけである。

認識は刺激の認識ということなのだが、
思考や想像においても同じように予め刺激として用意された
思考や想像の感覚やその刺激についてまず励起されていて、
その後にその刺激を認識することによって
今自分が思考しているとか想像しているとか認識することになる。
ということは、意識として連続する刺激の認識の途中で、
単なる個体の内外から受ける刺激以外に、
知能が脳内で準備した思考や想像に関して用意された刺激についても、
認識の途中で刺激として認識されることになる。
つまり、単なる自分の状態や周囲の環境について知ろうとする刺激以外に、
脳の知能の活動としての思考や想像に関する刺激も
連続する刺激の認識の途中途中で認識されているというわけである。

となると、自分が知能でもってして思考や想像しているという刺激を認識することも
意識の中の連続する刺激の認識に含まれているという事になる。

とはいえ、この場合においても、
意識的に何かを思考したり想像するという状態にはならなくて、
結局の所、これまで考えていたように
意識的に何かを考えたりするわけではなく、
自分が持っている刺激の、思考の、想像の傾向だけで
刺激は準備され、それを後付けの形で認識して意識上で確認しているという事になる。

今特に注目している点は、
こう何か自分が能動的に、知能より先に、これまで思っていたような、
意識的に自発的に何かをしようとして行動している、そういう
「きっかけ」を探しているのだが、どうにも見つからない。

これまでどれだけ考えても、例を挙げても、
そのきっかけになるような要因が思い当たらないのである。
この今の書いた内容でさえ、今までの説明で言えば、
知能が持つ刺激の記憶の傾向から、今、目的を持って思考するという知能活動で、
もっともらしい答えを得るために様々な刺激の関連を試して、
その中からもっともらしい答えとなる刺激の関連ができた場合に
その刺激は価値ある関連として励起されて強い刺激となり、
次の瞬間に思考したという認識とともにその刺激が答えとして認識される。
そういうことである。

結局全て自分の認識、意識に先立って行われている知能活動なのである。
自分が持つ意識、認識は、常に出来上がった刺激をなぞるようにして認識しているだけとなる。

だから、ここで、その知能活動にでさえ、先んじるような
その「きっかけ」を探してこのところ考えているのである。

刺激の状態として、唯一実際に認識されるであろう刺激の認識より先にできる刺激があるとするなら、
それは目的が出来た時のもっともらしい答え、期待される答えの刺激である。
いや、でも目的を認識した時にはその目的のもっともらしい答えもできていないと
目的として認識できないから、それもあらかじめ用意された刺激ということになるだろうか。

ではどうするか。
もう考えたと思って認識した時には、
その考えたと感じる刺激とその答えの刺激はもう出来上がっている事になる。
いつになっても先に刺激を用意することはできない。

認識のシステムが常に出来上がった刺激を後から認識するようにできているので、
その刺激が出来るきっかけは認識にとってはどうでもいいことなのである。

ということは私がどうやって、何を考えても、それを認識する時には
全てが用意されているということになる。

結局だめか。

後は思考するパターンの記憶か。
例えばこういうときにはどう考えるか。
そういう思考のパターンは知能毎がもつそれぞれの思考のパターン記憶であり、
分からない何かがあったときに、知能がどうやって答えを求めようかと
思考する時に、その思考において、どうやって思考するか、
そのパターンを記憶から想起しようとした時に持ち出される記憶である。

これは、その思考しようとする状況毎に思考するパターンも異なり、
何かの答えを求めようとするときに持ち出され、思考するというそのものの
目的の行動の目安となるテンプレートとなる記憶である。

これは、知能がもともと持っている手札、手段でもあり、
目的に先んじて持ち出される記憶である。
知能が何かをすると、認識したときにはその何かの目的として
価値ある何かが最終的な目標として掲げられる。
その価値ある何かを得るために、知能がどのように個体を動かして活動しようか決めるのが、
この思考のパターンである。
最終的な目的を手に入れるために、その方法として適した手段を
記憶の中から想起して思考するための目的ともっともらしい答え、最終目標を決める。
そして後からそれを認識して思考や想像の行動を起こすわけである。

思考するパターン自体は、意識的に選んで用いるというようなことにはならない、
そもそもまだ思考すること自体もまだ認識される前である。
でも、この思考するパターンのような刺激の記憶は、
これ自体が思考のきっかけにはならないが、少なくとも認識より先に
使われる刺激であることには違いなさそうである。

解決方法、思考パターン
そういう記憶は過去の経験から成り立つものである。
それらは思考するごとに想像するごとに記憶され、
様々なケースに対応できるようにパターンを増やしていく。

実際、思考の「きっかけ」にはならないものであるが、
思考することの認識に先んじて使われる記憶ではあるようである。

ようやくまず一つ、思考の認識より先に使われる何かが見つかったようである。

思考のパターンがあるなら、
そのパターン毎に適した目的ともっともらしい答えのテンプレートがあるはずである。

何かの刺激、価値を認識して欲した時に、
その対象について思考することになるが、
認識に先んじて用意されることになる思考の刺激、
きっかけは結局その認識されることになる何かの刺激、価値ということになるか。

まあ価値を認識したという時点で、
もう知能はその価値についての評価をする。
その価値がプラスで大きければ欲しいと思うわけであり、
そうなればすぐに思考のパターンが呼び出されて目的が作られ、
それが認識される、ということになるだろう。

実際にその目的が実行されるかどうかは
その目的を認識した後で、その目的に対する思考として実現可能かとか、
用意ができているかとか考えることになる。
これらも思考のパターンとして出来上がっていると考えられる。
つまり、ある価値を認識して、その価値に対して思考し、
さらにその思考についての分析の思考が行われるということになる。

そうすると、これまで考えてきた思考の傾向というような
知能が持つ思考する事に関する記憶が、
思考のきっかけではないにしろ思考の認識より先に想起されて用いられることになり、
きっかけがあるとすれば、
その思考の基になるもの、つまり、刺激として認識した価値ある対象、
その価値という刺激の発現がきっかけということになるだろう。

であると、知能の思考能力として、
ある刺激、価値を認識したことがきっかけとなり、
思考能力が働くということになるだろう。
実際にその思考の結果として、価値が目的となることが認識されると、
その知能を持つ個体はその行動を実行する、そういうことになる。

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そうすると、知能や精神の発現についてはどうなるのか。
単純に知識だけ与えても知能や精神の発現にはいたらないことは分かる。
どちらかというと必要なのは価値の設定ができることと、
その価値が必要であれば目的に関連付けて行動するきっかけとすることができることが必要だろう。
そしてその結果を記憶して次回の価値と目的のパターンの例の1つ、参考にできること。

知能を持つ個体が、自ら価値を設定できるなら、
自ずとその価値を手に入れようとする事は容易に想像できる。
手に入るか手に入らないかという点について思考することも行われることになるが、
これも思考の結果の経験の積み重ねから、つまりは思考のパターンの結果の積み重ねにより、
新たな思考の際の実現可能な具合とか、可能性などが自ら設定できるようになっていく。
これは、周囲の環境や、自分の状況・状態と、
自分が持つ思考のパターンから、目的とした時に実行できるかどうかという判断の材料となる。

ゆくゆくは時間がかかりそうであるが、実現可能であるなら自分の夢になるとか、
実現不可能かもしれないが実行してみるというような挑戦、
そういった多様な思考や価値、目的を自ら作り出せるようになるはずである。
そして、そのような知能活動の多様性は、
いずれは知能活動における精神の存在を感じられるようになるはずである。

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ずっと思考のきっかけについて考えてきたが、
まあ何かしら認識されない間に知能が受け取る情報の中にあるんだろうなという考えはあった。
まあそういう対象として知能が受け取るのは刺激であるのだが、
刺激がきっかけではありきたりだなという考えもあった。
それ以外の何かきっかけとなりそうなものを探そうと必死になっていたのだが、
最終的には刺激に戻ってきたのかなという所である。

知能をもつ生命として、
知能を持たない単純な生命であっても、
周囲の環境の変化や、自分の状態の変化に対しては
生命の自身に対して重要な情報のはずである。
その変化に対して生命としてどのような反応をするのかが、
客観的に見て知能に見えるというわけである。
反射のような反応もあるが、一応その変化を刺激と捉えて、
その刺激に対する反応として行動をする。
その一連の反応が知能に見えるというわけである。
で、本格的に知能となるのは、
その刺激と反応についての記憶をすることができて、
それを参考にして次の刺激と反応に生かせることが出来る事、
それこそが知能なのではないかというわけである。
入力と記憶と計算と出力、人工知能も何とかなりそうな構成である。

今日はこの辺で。


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