2021/7/31
思考の直前
思考の直前に何を行っているのか考えてみる。
刺激の認識やら、
思考についてもそうなのだが、
何かを知能が認識したと感じた時には
すでにその刺激は用意されていて、
その刺激がある一定の強さになっているために
その刺激が認識されることになるというわけである。
で、それならば、その認識されることになるであろう刺激が
何をもって用意されるのか、
そのきっかけについてこれまで色々考えてきた。
これまでの考えからすると、その刺激は、
目的としての刺激として認識されていた関連する刺激として
その刺激が次に認識される刺激として候補となっており、
認識されようとしているがゆえに、
意識的にそれを考えているもの、思考していると感じるものとして
後からその刺激の認識とともに今意識的に認識したように感じているのではないか、
というわけである。
今認識したと感じている刺激は、
その認識以前に存在する刺激である。
今思考している、意識している何かの対象についても、
その思考していると感じている内容の対象や、
意識していると感じている対象についての
その対象についての刺激は、
その認識以前に刺激として発生、励起された状態にあるものである。
で、それならば、その認識されるであろう刺激は
何のきっかけで決まっているのか、その辺りが今のところ不明である。
知能の考え方の傾向、つまり過去の思考などの経験から関連して励起されているのか、
意識されなかった刺激の残った励起状態から関連した刺激であるのか、
まだ今は知らない何かが決めているのか、
その辺りがはっきりしていない。
結局の所、戻ってくるのは、知能の持っている手札であり、
知能が持っているのはほとんどが刺激の記憶である。
体の内外から受ける刺激がきっかけという可能性もまだ残っているが、
何かを意識して刺激を認識しようとすると、
体の内外からの刺激はあまり関係なさそうな気がする。
そうするとやはり知能が持つ記憶からそのきっかけを作っていると考えるのが自然となる。
そう思ったからそうする。
そう感じたからそう感じる。
何かを行動として決めようとする直前にはこんな風に感じる。
例えば今体を横に倒したら心地いいだろうなと思ってから体を寝かせる。
今ちょうどそういう感じだった。
少しきちんと座り続けていたので体がこわばってきた感じがして、
少し横になろうかなと思って体を寝かせた。
この場合のきっかけは体の内から生じた体のこわばり具合が
体の状態としてマイナスの価値に感じたため、これを解消するという適応のために
体を横にしようという対処の目的が生じ、それに従って実行し、
体を横にしたといった具合である。
今回のきっかけは体の内から生じた体のこわばったという感覚の刺激である。
それがきっかけとなって、次の目的と行動を決めたことになる。
これは、体の内から生じた刺激に対する適応としてこの知能が作り出した目的であり、
その実行である。
刺激が価値であるなら、
その刺激を認識しようとすることは、知能にとっては意味がある事である。
その刺激が自ら認識しようとするのは、その刺激がプラスであろうがマイナスであろうが、
意味がある、知能が有用であるという判断をしたことになる。
実際は、何かが判断したというよりも、
結果としてそれが選ばれたというだけのような気もする。
つまり、何かのきっかけでその刺激を選んだというよりも、
これまでの傾向、これまでの経験として次にはこれが選ばれると
決まっているのかもしれない。
自分らしく、自分の知能らしく、というわけである。
今ある刺激の記憶の関連している状態。
シナプスの繋がりの状態は決まっていて、
そこから次に認識される刺激は決まっているのかもしれない。
そう考えるべくして考えている、
それを認識するべくして認識している、というわけである。
それは自分の知能が持っている認識のパターン、認識する刺激の傾向であり、
前に赤いリンゴを例に挙げたというのも、よくある例として記憶しているものとして、
自分の知能がもっともらしい適当な例として赤いリンゴの刺激を認識しようとした
というわけである。
だとすると、こうやって考えながら書いている文章、内容というのは、
今の自分が持っている知能の記憶の中で、
思考するという行動の結果、知能が持っている記憶の新しい関連を作り出しつつ、
それを思考していると認識し、その思考する目的として、得ようとしている結果について
ある自分が持つ傾向のある考え方で到達しようとしてるということになる。
刺激の、記憶の関連自体は、思考する前と後で変化するはずであり、
新しい考え方や、物の見方を思考した結果の発見という形で、記憶の刺激の関連ができたことを認識する。
まあ確かに、これまでの001から今回の078までの思考したという結果として、
色々な物の見方、発見と思われるような考え方が出てきた。
これは、何か新しい物を発見したわけではなく、
これまで記憶してきた刺激の関連において、何か意味がある、
価値がある、新しい記憶の関連が出来たということである。
こうやってしゃべるようにして考えをまとめ、
新しい何かを見つけようとしているわけだが、
それ自体は、私が何かを考える際によく用いている方法としての考え方である。
自問自答に近いだろうか。
今は理解できない、説明できない、解釈できない不明瞭な対象について、
細かく分解したり、見方を変えたりしながらその答えに近づいていこうとすること、
それが今の私のここにおける考え方という事になる。
今日、今、ここに至るまでの経験、記憶でもってして、
今日、今、この状況において私は、これを考える。
それは当然の今であり、当然の帰着である。
という事になるのだろうか。
人間が何か自分の行動の原点、そういうものがあって、
それぞれの人間のそれぞれの知能が、己の正義というか、
己の価値観に従って目的を持ち、行動する、思考する、
そういうことなのだろうか。
その環境に育ったからには、そういう価値観を持ち、
その価値観でもってして、別の環境においては自分はそう考えてそう行動する。
社会全体としては、それらの個の価値観の相互作用によって、
社会構造ができあがり、常識や非常識という個の価値観から抽出された
社会の価値観と、個の価値観のすれ違いがある中で、
個も社会も様々な経験を経て成り立った姿、それが今であるというわけである。
コミュニティー内の常識や非常識は、
そのコミュニティー内でのみ有効となる。
他のコミュニティー内にはまた別の常識と非常識があり、
それは個であっても同様である。
常識や非常識は価値観から生じるものであり、
それぞれに価値が設定される。
あるコミュニティーでは常識であり、価値のある対象であっても、
別のコミュニティーでは非常識であり、価値のない対象であることもある。
そうすれば自ずとコミュニティー間での価値の差は価値の差、差別の基礎になる。
前にも書いたかもしれないが、差別は良いか悪いかというそういう分け方をするものではなく、
差別はあってしかるべきだが、それを理解した上でお互いの違いを理解しようとすることが
重要であるということである。
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思考の直前
私は何の刺激を認識しようとしているのか。
そう考える事も自分らしく。
そう答えるのも自分らしい。
そういうことになるだろう。
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