2021/7/26
知能の目的
これまでの知能の働きや価値、目的、
意志や認識について考えていて、
その知能が持つ機能としての自分で認識できない所にある何かが
結局の所、自分らしさであり、自分が自由に何かを選択している部分である
という事になってしまった。
知能が持つその機能が選択した結果として
知能を持つ本体の自分が後から認識することで、
今あたかも自分が選択したように感じているということである。
認識が知能の選択より後で行われているということなので、
選択のそれを行う瞬間を自分自身が認識できないということになる。
それでも自分は自分が選択した結果としてその選択を認識することになる。
で、いざなぜそれを選択したかについては後から認識できないというのである。
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簡単に無意識という言葉を使って表したくないのは
無意識が意識に上がってこない認識できない対象であるので、
私はできる限り認識できる対象として扱い、
その認識できない対象を出来るだけ狭めておきたいのである。
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知能が何かを選択する際に無意識中で行うことがある。
それは意志などに関わらず、知能が自発的に自動的に行う選択であり、
自分が認識できるようになるのは、その選択が終了して
その結果が刺激として想起し、認識できる姿になってからである。
無意識については、
刺激として認識できない全てが対象となる。
意識は連続した刺激の認識をしている状態の事を言う。
だから、無意識はその連続した刺激の認識を行っていない
刺激群が認識されない対象となっている間の時間的な期間、
その知能の状態の全て、の事を言う。
つまり、刺激としては存在し、脳内では刺激として受け取っているが、
その瞬間においては、最も強い刺激ではないため、
認識されない刺激、それら刺激群のことである。
知能の活動をしている間、つまり、何か考えている間に、
意識は常にある状態である。
意識があるというのは、その考え思考している間の期間に
常に何らかの刺激を認識しつづけているという状態である。
思考しているならば、きっとその刺激は、思考に関係した
記憶の想起や、想像するなどした新しい刺激の関連を試みて模索するなどの
知能活動が行われていて、それを認識して、今自分は考えている、思考していると認識できる。
そして、
その意識的に思考している間も、その連続して認識している刺激以外の刺激は
常に受けているはずである。
これらの刺激は認識されることが無いので、無意識の部分にある存在となる。
しかし、それらの刺激は確かに存在しているはずである。
基本的に、生命の刺激に対する反応というのは、
生きていくために自分の体、個体に対する体外体内からの刺激に対して
それによりよく対応、適応するために行っている。
ここに知能が関係する事でより効率的にその反応を行っているのである。
知能としてより発達した結果、記憶などができるようになり、
本能として生まれながらに機能を持つより、
生まれてから学習し、その生まれた環境により良く適応しようとした結果が
今の人間の脳、知能という事になる。
環境が生まれるごとに変化するなら、生まれてから学んだ方が、
よりよく適応できたのだろう。
そして、今の人間の知能では、意識として行っている連続した刺激の認識だけでなく、
そこで認識されなかった無意識に受けている刺激を使っていると考えられるのである。
意識して認識した刺激だけに対応、適応したのだけでは、
その場しのぎになる。いずれしわ寄せがきて適応しきれなくなる。
それなら今認識している刺激を主な刺激としてメインの対応、適応をして、
それ以外の刺激については、予備、参考の刺激として用いようとしたのだろう。
どっちみち、刺激を認識するには時間がかかるので、
それならばいっそその時間差を利用して選択の猶予を持とうとしたのかもしれない。
刺激は五感から絶えず受けている、
しかし、全てを同時に認識する機能はないし、同時に認識してもその処理ができない。
それならば、意識としてある瞬間においては最も強く感じたある1つの刺激に注力し、
その刺激の処理を行う。
しかし、意識した刺激以外の刺激については、
知能としては刺激として受け取っているのでその次の変化に備えるために励起しておく。
そういうことだろうか。
一度認識した刺激は後から思い出して再認識することはできる。
その刺激が存在するものとして認識しているために、
後からでもその刺激を想起して再認識できるからである。
では、無意識に受けた刺激についてはどうだろうか。
刺激としては知能が受け取っているはずではあるが、
認識されなかったために、その刺激は存在しているか確認できない。
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文章を構成しようとしてその構成を忘れてしまったな。
無意識にある刺激について説明しようとして
色々書いてたらその構成の先を忘れてしまった。
意識にある刺激の事を説明してから無意識の残りの刺激について
説明しようとしたのである。
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で、だ、無意識に受けていた刺激について考えてみる。
意識しなかったというか、意識されなかったある瞬間における最も強くなかった刺激は、
刺激として受けた後は、その次の瞬間にはもう次の刺激を受けているので
認識されないままとなる。
時間経過に対して刺激の入力は連続であり、五感に関する刺激が絶えず
強い弱いを繰り返しながらその瞬間の最も強い刺激の軌跡を通ったものが意識となる。
つまり、この最も強い刺激の軌跡以下の刺激は全て無意識に受けた刺激ということになる。
しかし、この五感の無意識にある刺激にも、それぞれ強い弱いがあり、
認識されないまでも、やや強い刺激であるとか、変化に乏しい弱い刺激というのもある。
で、その次の瞬間においては認識されないまでもやや強い刺激というのは
その次の瞬間においては認識されやすいものであるし、
もともと弱い刺激の状態であった感覚は次の瞬間に認識される対象となることは少ない。
例えば視覚や聴覚、触覚などは割と常に強めの刺激を受けていることが多いので、
次の瞬間にも認識されることはあるが、味覚や嗅覚はそれに比べると認識までに
一瞬遅れることになる。
今、知能が、思考する目的として味覚や嗅覚について思考し、その感覚について認識したために、
次の瞬間に口の中の味の状態を認識したり、今の周りの匂いについて認識したりできたが、
普段は常に味の事などは考えないため、口の中の味の状態などはあまり認識しない。
この刺激の認識については、知能活動でもある記憶の想起や、思考の際の記憶、刺激の想起にも
関係していると考えられる。
要するに同じようなシステムで動作しているであろうということである。
体内体外からの刺激については五感を使って刺激を認識している。
では知能の思考する場合は脳内の記憶された刺激を想起して使うことになる。
体内体外からの刺激は五感の刺激それぞれにおいて連続していると書いたが、
これは、知能の思考についても言えると考えられる。
思考している最中に認識して意識している刺激は連続であり、
その刺激を認識して意識的に思考していると感じているわけである。
であるなら、この思考の際に用いている認識している刺激は、
想起によって励起された記憶の刺激であり、この刺激を体内体外から受けている刺激より
強い刺激として励起していることになる。
思考における脳内の想起した連続した刺激については、
その思考のシステムからこれまでに書いてきたように
ある目的となる課題や問題、不足などの目的があり、
それを解決や充足するための新しい刺激を作り出そうとすることであるとした。
であれば、思考の際に励起し、想起する刺激は、単純にこれまで記憶した刺激だけでなく、
その新しい関連を作るための他の刺激の記憶も関連して励起することになる。
とりあえず軸索をいろいろ伸ばしてみて、目的の解答として良さそうな刺激、価値である
刺激の関連となるならそれを認識、強化して新しい記憶とし、
刺激として満足いかない関連であるならその軸索の関連を止めるということになる。
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参考:軸索の末端の伸長について
神経細胞は軸索という突起を長く伸ばし、他の神経細胞に近付くことにより、
複雑な神経回路網をつくる。20年前、米国のグループによって、
伸びている軸索の先端に含まれる「アクチン」というタンパク質がエンジンの
ような動きをすることが報告された。また、
軸索の先端には路面をとらえるタイヤの役目を果たす「細胞接着分子」も存在することも分かった。
そこで、神経を 伸ばす分子の仕組みとしてエンジンとタイヤを結びつけるとともに速度を調節する
「クラッチ分子」が軸索の先端に存在すれば、エンジンの動きをタイヤに伝えて
自在に神経が伸びるという説(クラッチ仮説)が提唱された。しかし、
この様な「クラッチ分子」の正体は長らくわかっていなかった。
シューティンは軸索先端でエンジン分子ともタイヤ分子とも連結することが分かった。
シューティンを減少させたり、シューティンとエンジン分子の連結を弱めたりすると、
軸索先端におけるタイヤ分子の動きが遅くなり軸索の伸びが抑えられた。また、
逆にシューティンを増加させると、タイヤ分子の動きは早くなり軸索の伸びも早まった。
このことか ら、シューティンが長らく謎だった「クラッチ分子」であると結論された。
参考:軸索の伸長速度 再生医療などにおける研究では再生時には最速で数㎜/day伸びる。
通常時の軸索の伸長速度と末端の接続速度は不明。
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数日前NHKのしぜんとあそぼうという番組において、
セミが題材だったのだが、その中でヒグラシが
一度鳴いた後に少し移動してまた鳴くという行動をすることを初めて知った。
この時に新しい記憶として、ヒグラシに対してと、
その習性としての鳴いた後の移動という刺激が追加された。
この時に脳内の記憶として新しい刺激同士の関連が新たに作られたはずであるが、
ヒグラシと鳴く、という記憶に追加で後で少し移動するという記憶が付加された。
この間、ものの数秒である。先に認識した刺激については、
一度記憶された後に想起され、その想起によって認識される刺激となるのであり、
その番組を見ている間、そのヒグラシが移動する様子を見た、
その刺激を認識した時にはもう記憶してその新しい刺激の関連ができているのである。
刺激として認識するというのは、記憶するまでの時間とも言えるのではないか。
要するに、これまで、認識は刺激を受けた後で、それを記憶し、もしくは記憶してある刺激に対して
改めて励起する事で刺激として認識できるようになると、考えているが、
この僅かな時間差は、刺激を刺激として認識するための時間でもあるのではないかというわけである。
鳥が空中で飛んでいる虫を取るということがある。
飛んでいる虫をそのまま捕まえるのは、人間にとっては難しいことである。
自然界では周囲の変化に対して俊敏に対応できた方が有利に決まっている。
しかし、人間はそれができない、できない代わりに多くの記憶を持つことが出来る。
結果としては人間は繁栄し、多くの動物は追いやられている。
あ、そうそう、それについて知能の自然界の中での成り立ちについても考えたのだが、
人間の脳が大きくなったのは結果としてはそれが自然界の生き残りの中でそれが有利だった
ということになる。
つまり、脳を大きくした人間が他の動物よりも繁栄したわけだが、
人間同士の争いもあった中で、今、脳はこのサイズになっている。
実際どれだけの量の脳を使っているのかは分からないが、
見知った話では意外に余力があるらしい。
少し疲れたのでこの辺で。
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